39 湊斗の記憶・夏⑬~壊変~
数分後、それまで泣き叫んでいた母が、突然ぐったりした。糸が切れた操り人形みたいに、床にガクッと膝をついた。
「母さん?」
「由紀子さん、聞こえる?」
母を両脇から支えていた父と祖母は、母の面を覗きこみ、顔を見合わせた。
「気を失ったのかしら……」
「とにかく、今のうちに寝室へ運ぼう」
二人は少しほっとしたように、脱力した母を担いでいく。ネグリジェからだらりと垂れ下がる細い足が、尾をひくように寝室の暗がりへ消えていった。
湊斗はその間、ぼんやりと壁際に座りこんだままでいた。目の前で起きたことは、まるでテレビや動画の中の出来事であって、自分からは遠く思えた。
(どうして――どうして、こんなことに?)
もしこれが画面の向こうの話なら、すぐにチャンネルを変えてしまえばいい。だが、実際には、錯乱した母の姿を記憶から消すことも、自分がここから立ち去ることもできないのだった。
(あんなに泣きわめいて、あれがお母さんなのか? お母さんはなぜひたすら謝ってた? 何を許してほしがってる? 一体、お母さんはどうなっちゃうんだ?)
湊斗の胸に、不安と恐怖の冷たい塊がずしりと乗しかかる。真夏なのに皮膚が粟立って、無意識に己の両腕をかき抱いていた。
「湊斗」
ふいに気遣う声で名を呼ばれ、うつろに頭を上げると、祖母が膝をつき、心配そうに湊斗を見つめていた。
「おばあちゃん……」
「湊斗、大丈夫? お母さんがいきなりあんなふうになって、驚いたわよね」
祖母はいたわるように語りかけてから、湊斗を胸元へ寄せ、背中を優しくさすった。
(ああ、おばあちゃんの声と、匂いだ……)
それは、湊斗が幼い頃から一番近くにいてくれて、よく知っている祖母の声と匂い、そして温もりだった。
「おばあちゃん、お母さんは?」
「安心して、今は眠ってる。お母さんも、さっきは少しびっくりしただけよ。おばあちゃんたちがついてるから、何も心配いらないわ」
祖母の口調は子どもをあやすのに似ていて、湊斗に昔の記憶を思い出させた。
(そうだ。夜はおばあちゃんがいつも寝かせてくれたんだっけ)
――おばあちゃん、おかあさんは? どこかいたいの?
――大丈夫よ、湊斗。お母さんはちょっとお休みしてるだけだからね。すぐ元気になるわ。
(すぐ、元気に――)
湊斗はかつて祖母と交わした会話を心に浮かべるうちに、いつの間にかポロポロと涙をこぼしていた。
「ああ、湊斗。泣かないで、可哀想に」
祖母は孫の涙に気づき、いっそう強く彼を抱きしめた。
陽が徐々に傾いてきた頃。
「いくら病気だっていってもね、私が由紀子さんだったら、まず湊斗に謝るわよ。我が子をあんなに悲しませるなんて―――」
自室で休んでいた湊斗がそろそろと廊下に出た時、居間から祖母の言葉が聞こえてきた。
(おばあちゃん……)
苛立ちと嘆きに満ちた、祖母の声。母に厳しい目を向けられるのは湊斗にとって辛かったが、一方でそれが自分を慮っての台詞であることもよくわかり、何ともいえない気持ちになる。
ところが、続く父の答えに、湊斗は耳を疑った。
「仕方ないさ、おふくろ。由紀子はあらゆる点で劣ってるってことなんだ。そんな余裕、あるわけないじゃないか」
(――なんだって?)
今、『劣っている』と言ったのか。湊斗は束の間、息をするのも忘れていたが、やがてよろめきながら居間の方へ進む。
「おふくろもそうやって態度に出すから、由紀子がますます追い詰められるんだよ。できない人にいくらやれって言っても無理――」
「お父さん、さっき、お母さんのこと何て言ったの?」
居間にたどり着いた湊斗は、父の話を遮り、上ずった声で問うた。
「湊斗、休んでなくていいの?」
急に現れた孫に、畳に座っていた祖母が思わず腰を浮かせる。その横で、父が目を丸くして息子を見た。先ほどまでエアコンをつけていたのか、扇風機が送る風は、いくぶん冷気を含んでいる。
「劣ってるって言った?」
しかし、湊斗は祖母の呼びかけなどもはや耳に入らず、父だけを見据えて、再度尋ねた。
対する父は、取り繕うような半笑いで、
「湊斗、聞いてたのか。今のは言葉のあやで……」
「嘘だ!」
父に飛びかからんばかりに、湊斗の声がその場に轟いた。父と祖母の表情が、ピタリと凍りつく。
「お父さんは前にも、お母さんのことを能力がないって言ってたじゃないか! お父さんはお母さんを、自分より下だと思ってるんだろ!?」
「そんなに怒らないで、湊斗」
孫の感情の爆発に、祖母はうろたえて声を上げた。
「落ち着け、湊斗」
顔をこわばらせた父が立ち上がり、湊斗の方へゆっくり近づいて口を開く。
「父さんは、決して母さんを責めてるわけじゃない。ただ――」
「じゃあ、お父さんは偉いの!? 仕事してるから? 病気じゃないから?」
父の弁解めいた言い方が、湊斗の気持ちをますます逆なでした。これまで見えていたのに見ようとしなかったもの、存在しているのに蓋をして無いことにしようとしてきたものが、今や湊斗の眼前に、ありありと横たわっているようだった。
「だったら、どうしてお母さんはいつもすごく辛そうなの!? 昔から、お母さんはぼくらに謝ってばっかりだ。お父さんが本当に偉いなら、苦しんでいる人にそんなひどいことを言う!? お母さんだって、もっと幸せに――」
そう言った瞬間、父の形相が鬼のごとく歪んだ。そして、父が拳を振り上げた直後、湊斗は顔に強い衝撃を受け、廊下に叩きつけられていた。
「湊斗!!」
耳をつんざく、祖母の悲鳴。
左の頬と、床に打ちつけた体がじんじんして、湊斗は自分が父に殴られたと悟った。
「俊雄、あんた何てことを!」
倒れた湊斗に駆け寄ろうとする祖母を、父は乱暴に押しのけ、
「子どもが知ったふうな口をきくな! 親の金で食って、学校に行ってるだけのお前に何がわかる!? お前も由紀子も、おれの苦労を全く――!」
わなわなと震える指を湊斗へ向け、激しく糾弾する。それはおよそ罵倒といってもよかった。
(……これが、お父さんの本音だったのか)
湊斗はふらつく頭を押さえ、かろうじて身を起こす。父に手を上げられたのは初めてで、口の中に血の味が広がる。けれども内心の激情は消えることなく、むしろ、父への怒りと軽蔑になって、湊斗の瞳に強く宿った。
「親に向かって、何だ、その目は!」
「お父さんだって、お母さんやぼくのことを、ちっともわかってない! ぼくは、お父さんみたいには絶対ならない!」
湊斗はそう怒鳴ると、痛みも忘れて一気に玄関へ走った。
「湊斗!」
と叫んだのは、父だったのか祖母だったのか。
無我夢中で外へ出る直前、湊斗は一瞬だけ母の寝室を見た。
(これだけ騒いでいるのに、お母さん、聞こえないの? ぼくたちの声が)
母は眠っているのだろうか。固く閉じた扉は、決して開くことがなかった。
茜空の下、蝉たちが狂ったように鳴いている。
湊斗は足にサンダルを引っかけただけで、社宅の棟を飛び出し、敷地の外をめざしていた。
(あれが、ぼくのお父さんとお母さんか)
顔を歪めて逆上する父と、泣き叫ぶ母の姿が頭から離れない。殴られた頬も、じんじんと痛んで湊斗を苛んでくる。
(家族って、こんなものなのか)
行くあてがあるわけではなかった。それでも、湊斗は芝生や駐輪場を横切って、ひたすら駆ける。
あと少しで正門という所で、湊斗は奥の棟から出てきた車とぶつかりそうになった。それは赤い軽乗用車で、ビッと短いクラクションを鳴らし、寸前で停まる。
(これ、ヴィッツ……?)
その車に、湊斗は覚えがあった。運転席の方を見ると、ちょうど窓ガラスがするすると開き、顔を出したのはリナだった。
「ちょっとぉ、湊斗くん? 誰かと思ったわよ。急に飛び出してきて、危ないじゃない――」
むくれて言いかけたリナだったが、湊斗の顔を見て、急に言葉を止めた。
「湊斗くん、頬っぺた腫れてるけど……どうしたの? 大丈夫?」
リナが初めて見せる真顔で、運転席から降りてくる。
「リナ、さん……」
湊斗は何か答えなければと口を動かしたが、結局言葉にならず、心のどこかで張りつめていた糸がぷっつりと切れるのを感じた。




