38 湊斗の記憶・夏⑫~崩壊のプレリュード~
「おばあちゃん! 急にどうしたの!?」
突然やって来た祖母を前に、湊斗は飛び上がって驚いた。
「だって、湊斗、塾へ行くんでしょ? お父さんから何も聞いてない?」
真夏の暑さで、祖母はハンカチで顔の汗を拭いながら言った。
「とにかく、中へ入れてちょうだい。タクシーから降りたとたん、もう暑くって」
祖母が靴を脱いでいると、声を聞きつけた父がバタバタと駆け寄ってきた。
「おふくろ、もう来たのか!?」
「嫌ねえ、俊雄。湊斗の塾が明日にでも始まるようなこと言ってたじゃない。だから急いで来たのに」
もはや困惑を通り越して狼狽する父に対し、祖母は気を悪くしたようだった。
「いや、夏期講習は来週だって。湊斗にもさっき話したとこなんだ」
「さっき? あんたはいつもやることが遅いんだから、まったく」
うだる暑さもあってか、どこか不機嫌な祖母の口調に、父もカチンときたようだった。
「おふくろこそ、来てくれたのはありがたいけど、早とちりだよ。大体、おれだって色々忙しかったんだ。盆休みまでに片付けなきゃいけない案件が山ほど――」
「ちょっと、やめてよお父さん」
見かねた湊斗が、思わず止めに入る。
「おばあちゃんも着いたばっかりで疲れてるだろうしさ。それに、お母さんにも聞こえちゃうよ」
湊斗は、父をたしなめながらも無性に不安になっていた。何かが決定的にうまくいっていない。歯車が一つ噛み合わないことで、後の全てが狂っていくような危うさが、いつの間にか自分たちに忍び寄っている気がしてならなかったのだ。
父はここで母に気づかれてはまずいと考えたのか、苦い顔つきで黙りこんだ。
「そ、そうね。湊斗の言うとおりだわ。ひとまず……」
祖母は孫に笑顔を作ってみせると、そそくさと居間へ向かおうとした。
が、折悪しく、玄関脇の部屋の扉が音もなく開き、母がそろりと青白い顔を覗かせた。
「お母さん――!」
湊斗の悲鳴に似た声も虚しく、祖母の存在に気づいた母は、びくりと身をすくめた。
「お義母さん……!? どうして、ここに……? お父さん、これは一体……」
息をするのも忘れ、よろめきながら後ずさる母は、まるで恐怖映画の主人公だった。
「母さん、落ち着いて。ちゃんと説明するから」
父は倒れそうな母を横から支えると、懸命になだめすかした。
「そのようすだと、何も知らないのね? 由紀子さん」
眼前のやりとりで、祖母も状況を察して表情を渋くした。
「やりたくないことを先延ばしにする。あんたの昔っからの悪い癖よ、俊雄」
祖母の言葉が、見えないナイフとなって、父に刺さった。
「だから、仕事が忙しいって言ってるだろ!? おれだって苦労してるんだ、いい加減にしてくれよ!」
湊斗は、父が怒鳴るのを初めて見た。激高した父の声は狭い廊下に響き、そこにいた誰をも呆然とさせる迫力を帯びていた。
「あ……ああ……」
やがて、父の感情の爆発に、もっとも近くで晒された母が、自らの頭を抱え、ぶるぶると震え出した。
同時に、見開かれたままの両目から、涙が堰を切って溢れてくる。
「あ~~~っっ!!」
そして次の瞬間、母は錯乱し、大きく泣き叫んだ。
「母さん!」
「由紀子さん!?」
父だけでなく、祖母も慌てて母のそばに向かい、何とか落ち着かせようとする。
「私のせいです! 私が悪いんです、私が!」
「違うんだ、今のは母さんに言ったんじゃないから!」
「由紀子さん、しっかりして! 俊雄、薬とかないの!?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ!」
父たちの必死の制止にも関わらず、母は長い髪を振り乱し、涙を流して狂ったように喚き続けた。
「許して許して許して! もう、許してえ!!」
(こんなの、嘘だ……)
眼前で繰り広げられる光景に、湊斗はなす術もなかった。今の母は、自分の知らない母だった。
湊斗の中で、何かが急速に、音を立てて崩れていく。力の抜けた背中が壁にぶつかり、湊斗はそのままズルズルと床に座りこんでいた。




