7 中井
日曜の昼下がり。
陸は自転車で、社宅近くのドラッグストアへ向かっていた。やることもなく自室でゴロゴロしていると、母に買い物を頼まれたのだ。
「あ~、めんどくさ……」
頭上には穏やかな青空が広がっていたが、陸はやる気なさげにペダルをこぎ進める。
出かけるのはともかく、買えと言われた物が陸の意欲を削いでいた。
トイレットペーパー。安売りしているらしいが、そんな物を自転車に積んで帰る自分を想像すると、何だか恥ずかしく思えてしまうのだ。
『んなの、お父さんに頼めばいいじゃん』
母に頼まれた時、陸は真っ先に抵抗したが、
『何言ってんの、パパはとっくにゴルフよ。もうじき海が友だち連れて来るっていうし、お母さん出られないの。あんた暇でしょ?』
幼い末っ子の空は論外という話で、陸が渋々出かけることになったのだ。
(どうせ買うなら、サプリとかもっとカッコいい物がいいのに)
陸が漠然と思いを巡らせる内に、道路の右手にドラッグストアが見えてきた。
大きな箱を思わせる、一階建ての店舗。正面にある自動ドアの横に『本日ポイント5倍』ののぼり旗が立ち、両側の台には洗剤などの特売品が積んである。そして手前のスペースは白線で区切られ、数台の車と自転車が停められていた。
陸が空いた場所に自転車を停めていると、
「おう、陸やんか」
特徴のある関西弁で、声をかけられた。陸が知る人物でそんな言葉を使うのは、一人しかいない。
慌てて振り返ると、そこにはやはり中井が立っていた。トレーニング中なのか、上下とも黒のジャージ姿だった。左の胸元に、赤色で猫科の動物のロゴが小さく描かれている。
「中井!」
まさかこんな場所で会うとは思ってもおらず、すっとんきょうな声を発する陸に、
「お前もトイレットペーパー買いに来たんか?」
中井はそう言って、冗談めかして笑った。
「陸。お前、トイレットペーパーをなめたらあかんで」
「へ?」
店内に入った陸と中井は、レジの近くで山積みにされたトイレットペーパーを二つずつ、それぞれ手に取った。
その際、陸はいい歳をして(もうじき十六になるのだから)こんな物を買うのはカッコ悪いとぼやいたのだ。中井の言葉は、それに対して向けられたものだった。
「おれ、なめてないよ。ていうか、別にこれ、おいしくないだろ」
中井の台詞を額面通りに受け取った陸が、怪訝そうに頭を傾げた。
「……」
中井は一瞬、全ての身動きを停止させ、
「お前、天然か? それかボケてみたんか? 何にしても、時を止める才能があるわ」
したり顔で頷かれる。
「おれは真面目だよ、一応! ボケなんか出来る訳ないだろ、お笑い芸人じゃあるまいし」
陸は気づかぬ間に下手な漫才に巻き込まれた気分で、困ったように肩をすくめた。
入学式の日、中井も以前、大阪から引っ越してきたと聞いた。陸も父の転勤で関西にいたことはあったが、まだ幼稚園に入る前だったので殆ど記憶がない。そのため大阪の人間とまともに話すのは、中井が初めてだった。よくわからないが、大阪人とは皆こんなものなのだろうか。
「ほんだら余計あかんわ。トイレットペーパーをなめるなっちゅーのはバカにするなってこっちゃ。もしトイレでウンコした後、紙なかったらどうすんねん」
「……」
堂々とトイレットペーパーの重要性を主張する中井に、今度は陸が沈黙する番だった。確かにもっともな意見だが、こうはっきり言われると、返す言葉が見つからない。
「……中井も、時を止める才能あると思うよ」
しばしの沈黙の末、ポツリと呟く陸だった。
その後、二人は揃ってトイレットペーパーを購入した。一つ違うと言えば、中井は運動後に飲むらしい粉末のスポーツ飲料も買ったことだった。
「中井って、何か運動してんの?」
店を出た二人は、敷地の隅にある段差へ腰かけていた。その傍らには、会計済みのシールを貼った十二個入りのトイレットペーパーが、二つずつ置かれている。
「オレは陸上。昔から走るん好きでな。学校は部活のために行っとるようなもんや」
店内で安く売られていたペットボトルの水を口にしながら、中井が答えた。
「へー、すごいね。じゃあ、高校も陸上部?」
健康的に日焼けした肌や快活そうな雰囲気などから、中井が体育会系というのは、陸にも容易に想像がついた。
「そらそうや。陸は何もやってへんのか?」
「おれはどっちかというと文化系。運動は嫌いじゃないけど、汗かくの苦手でさ」
「はあ?」
中井が奇妙な生き物でも見るような目で、陸に問い返した。
それは陸の正直な気持ちであった。運動は不得手ではないが、汗でベタベタになってまでやるほど好きでもない。陸にとっては、テレビやネットのゲームや動画、漫画にラジオの『スクール・ファン』などと接する方がよほど楽しい。しかしそのどれも、学校という空間の中にはないものだった。
「お前、汗かく気持ち良さを知らんのか? もったいないやっちゃな――」
中井は頭を左右に振って嘆きかけたが、ふと前方の何かに気づいて、陸との会話を止めた。
「?」
不思議に思った陸が、中井の視線を辿ると、店から出てきた一人の女性に行きついた。
「あ――」
それは、入学式の帰りに社宅で出会った女性だった。白っぽい灰色の上着に黒いスカート姿。黒髪を後ろで一つに束ねただけのおとなしい印象は、A棟の前で話をした時と同じだ。
女性の方も、こちらに気がついたらしい。俯きがちな眼差しが二人を認識すると、驚いたように開かれた。
「ど、どうも……」
「こんにちは」
陸が慌てて挨拶するのと同時に、中井も落ち着いた様子で一礼してみせる。
「お元気そうで……」
女性も中井を知っているらしい。陸にも会釈を返したが、声をかけたのは中井に対してだった。
(え、知り合い?)
社宅暮らしでもない中井が女性と知り合いであることに、陸には予想外だった。
それ以上の会話はなく、女性は深々と頭を下げると、陸たちの前を通り過ぎていった。
「あの人、同じ社宅の人だけど……中井も知ってんの?」
女性の後ろ姿が見えなくなってから、陸が訊ねた。
すると中井は少し考えるように黙った後、
「……中学ん時の先輩の、おばちゃんや」
これといった感情を面に浮かべることなく、そう答えた。
「え、そうなんだ。じゃあ、その先輩も高校生? もしかして同じ学校とか?」
陸の声がやや弾んだ。今の社宅に来てから、まだ自分と同世代の相手を見かけていないのだ。もしかしたら今後、顔を合わせることがあるかも知れない。
「いや――もう、おらん」
「え?」
陸の質問に他意はなかったが、中井の表情には、青空を隠す曇天のような陰りが、わずかに差していた。
「亡くなったんや。三年前に」
中井は実は以前から書きたかったキャラなので、作者的に楽しかったです。でも決して大阪人が皆こうだとは思っていませんので、大阪の方がもしこれを読んで気を悪くされたらすみません(汗)。