36 湊斗の記憶・夏⑩~炎上~
うだるような暑さの中、どこをどう歩いたのか覚えていなかったが、湊斗は家に帰りつくと、無言で自室に駆けこんだ。普段なら、まず母の具合を確認するところだが、その余裕さえなかった。
「わあああっ!!」
ようやく自分だけの空間を確保した湊斗は怒りの叫びを上げ、持っていたスクールバッグを畳へ叩きつけた。
「的場の奴……!」
湊斗の胸は、的場への憎悪で煮えくり返っていた。
先ほど、部室の前で立ち聞きしてしまった的場の話。それは三景や流郷にしか話していない、湊斗の家庭に関する内容だった。
(おばあちゃんがお母さんをいじめた? それで病気になって、逃げてきただって? よくも、そんな適当なことを――!)
湊斗は拳を震わせ、昔のことを思い返した。
幼い彼は子ども向けのテレビ番組を観ながら踊っていた。かたわらには祖母がいて、ニコニコして手拍子を打ちながら、見守ってくれている――。
(おばあちゃんは、お母さんがいられない分、いつもぼくと一緒にいてくれたんだ。誕生日も子どもの日もクリスマスも、必ずお祝いしてくれた)
友達に比べて、自分には母との楽しい思い出がほとんどないのは明らかだった。けれど、祖母は孫ができるだけ寂しさを感じないよう、あれこれと面倒をみてくれたのだ。
(確かに、お母さんとおばあちゃんは気が合わないのかもしれない)
祖父母と同居していた時も、夏休み前に祖母が世話をしにやって来た時も、母と祖母の間には見えない軋轢があった。幼い頃にはあまりわからなかったが、成長した今、母に対する祖母の態度が、湊斗や父に対するものと違うのは明白だった。
(でも、きっとそれぞれに言い分があるだろうし、何より、ぼくにとっては大好きなおばあちゃんなんだ。そのおばあちゃんを悪者呼ばわりするなんて……!)
祖母の名誉を傷つけられたことは耐え難く、湊斗はただ立ち尽くした。四畳半の和室には窓が一つあるが、もはや彼はそれを開けることも忘れており、部屋にはむっとした熱気がこもっていた。
(お母さんのことだって、何年もずっと苦しんできたんだ。どんなにしんどい思いをしてきたか知りもしないで、冷やかしているだけじゃないか)
湊斗は病に苛まれる母を見続けてきた。夜眠れなかったり、食べても何の味もしなかったり、ずっとベッドから起き上がれなかったりと、じりじりと母の心身を蝕む病苦の恐ろしさ、そして、その有り様を目の当たりにする辛さと共に生きてきたのだ。
(そういうことを、これっぽっちも想像しようとしないのか。的場も、あいつの母親も。庄野と同じ――いや、もっと悪い)
昼でもやや暗い部屋の中で、カーテン越しに窓から射す淡い光だけが、湊斗を包みこむように照らしていた。湊斗は背中に汗が流れ落ちるのを感じながら、光の白さに目を細めた。
(そうだ。あいつは、学校の皆にバラしたんだ。よりによって、ハルや中井に)
悔しさや悲しみがない交ぜになって、湊斗は頭がくらくらしてきた。心なしか、目の前もチカチカする。
(すぐには無理でも、いずれ、ぼく自身から話せたかもしれないのに)
夏祭りの一件で、湊斗はハルや中井とも以前より打ち解けられた気がしていたのだ。たとえ全てを話せなくても、部分的になら打ち明けられるのではと考え始めた矢先だった。
(許せない、許さない……!)
渦巻く感情は嵐となって、湊斗の頭をガンガンと激しく打ちつけた。やがて、足元にも力が入らなくなり――湊斗の意識は闇に吸い込まれるように遠のき、その身は畳の上に倒れた。
「……う……」
どのくらい時間が経ったのか。湊斗はゆっくりと目を覚ました。
窓も引き戸も閉めきった室内には、蒸せかえるような暑さが充満している。
(ぼく、倒れてたのか?)
湊斗はかろうじて体を起こしたが、ずっしりと重く感じられ、ひどくだるい。しかも、着たままの制服は汗でぐっしょり濡れていた。
(もしかして、熱中症?)
壁にかけられた温度計は、36度を示していた。
「うわ、やば……」
とにかく水分を摂ろう。湊斗は捨て置かれていたスクールバッグに手を伸ばし、水筒に運よく残っていたお茶を飲んだ。
(いくらムカついてても、窓も閉めたまま、エアコンもつけずに……我ながら、バカだなあ)
ひとしきり喉を潤すと、いちおう気分が落ち着いてきた。倦怠感は残っているが、動く気力も戻りつつある。
ふと思い出したように、勉強机の置き時計に目をやる湊斗。すでに17時半を回っていた。
「もう夕方じゃないか」
湊斗はよろめきつつ立ち上がり窓ガラスを開けた。とたんに、息を呑んだ。
網戸の先に映る夕焼け空。それを覆いつくす勢いで、黒い煙が地上からもうもうと広がっていた。
(――何だ、あれ)
どす黒い煙は、後から後から立ちのぼっていく。
「……火事?」
黒煙は、湊斗がいる社宅とは少し離れた、住宅街の方向から出ているようだ。
その時、強風にあおられ、黒煙が大きくゆらいだ。煙の真ん中に、吊り上がった目と避けた口のような隙間ができ、ニタリと笑う悪鬼に見えた。
「!」
ただの煙に過ぎないはずが、湊斗は言い知れぬ不気味さと禍々しさを感じ、即座に窓を閉める。何台もの消防車のサイレンの音が、夕暮れの街にけたたましく鳴り響いていた。
その晩、湊斗のスマートフォンのLINEに、流郷からメッセージが届いた。
『緊急。的場の家が火事』
『おばちゃんが大火傷で治療中』




