26 湊斗の記憶⑳~悪夢~
どことも知れない場所。光もなく闇もない、ただ灰色のもやの中に、母が立っていた。
どういうわけか、母は水でも浴びたように、全身ぐっしょりと濡れている。寝間着姿で青白い顔をした母に、湊斗はすぐに駆け寄ろうとした。しかし、その足は地面に貼りついて、ぴくりとも動かない。
――お母さん、どうしたの!?
湊斗は必死に叫んだつもりだったが、口まで固く閉ざされ、一語も発することができなかった。
すると、無表情で佇んでいた母が、
「死出の旅路へ」
ぽつりと呟いた。よく見ると、母の目も口もぽっかりと穴が開いたようになっており、その奥には暗い虚無が広がっていた。
母はさらに、
「湊斗、あなたも一緒に――」
低い、呻きに似た口調でそう言うと、白い両手を湊斗めがけて、にゅうっと突き出した。
「うわっ!」
湊斗は自分の悲鳴で目が覚めた。
(……夢か……)
いつもと変わらぬ自室の天井が目に映り、安堵する湊斗。が、胸の鼓動は今もなお速い。
湊斗は恐る恐る布団から起き上がった。夢で母の手を払いのけようとしたせいか、タオルケットが畳の向こうへ飛ばされている。窓の方を見ると、薄緑色のカーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
「何だよ、あの夢……」
湊斗は心を落ち着かせるべく、深呼吸した。それでも、先ほどの夢の衝撃は消えず、母の手が体に忍びよる感覚が残っている。
――なぜ、あんな夢を見たのだろうか。
勉強机の隅の置き時計にちらりと視線を投げつつ、湊斗はそう考えずにいられなかった。
祖母が来てから、ちょうど一週間。時計の針は午前八時半を指している。学校が休みの土曜日とはいえ、アラームを使わず、また朝食や洗濯のことを一切気にせずにいられるのは、まさに祖母のおかげであった。
(そうだ。ぼくは楽になったけど、お母さんは……)
湊斗が思いを巡らせていると、部屋の引き戸をノックする音がした。
「湊斗、まだ寝てるの? もうパンが焼けるから、起きていらっしゃい」
続けて、祖母のよく通る声。その張りのある口調に、湊斗は物思いの世界から、一気に現実へと引き戻された。
「わかったよ。今行く!」
やや大きめの声で答え、湊斗は慌てて箪笥から服を取り出した。
湊斗が廊下に出ると、トーストの香ばしい匂いが漂っていた。台所からは包丁がまな板を打つリズミカルな音が響き、電子レンジがピーピーと忙しなく鳴っている。
一方、隣の居間を覗くと、湊斗同様に起きたばかりな顔をした父が、丸い座卓の前であぐらをかき、コーヒーを飲んでいた。
「おう、湊斗。おはよう」
息子に気づいた父が、機嫌よく声をかける。
「お父さん、昨日いつ帰ってきたの?」
湊斗も座卓につくと、父にそう尋ねた。夕べ、父は職場の宴会のため、湊斗が起きている間には帰ってこなかったのだ。
「うーん、確か一時ごろだったかな? 父さんも酔ってて、よく覚えてないんだ」
父が苦笑して答えた時、台所に続く磨硝子の引き戸が開いて、祖母が顔を見せた。
「夜中の二時だったわよ。しかも乗ってった車を置いたまま、タクシーで。まったく呆れたお父さんよねえ、湊斗」
祖母は大げさにため息をつくと、湊斗と父の前に焼きたてのトーストを並べていく。
「だって、飲酒運転するわけにはいかないだろう? タクシーだって、皆で乗り合わせてきたんだから。そりゃあ、お金は上司のおれが払ったけどさ」
父は特に悪びれたふうもなかったが、
「あんたは昔からお酒に目がないんだから。それに、あんたたちが帰ってくるの窓から見えたけど、若い娘さんもいたじゃない。あんな時間まで、ちょっとどうかと思うわよ」
祖母の小言は止まらない。さらに『若い娘さん』と言った際の祖母は、眉を深くひそめていた。
「ああ、神崎くんか?」
父の口からこぼれた名前に、湊斗の耳がぴくりと反応した。きっとリナのことに違いない。湊斗は無意識に父の次の言葉を待った。
「彼女、なかなか飲めるクチでな。今年のうちの係は強者ぞろいだよ。昨日も、気がついたら三次会まで連行されて」
けれど、父はリナについて一言ふれただけであった。これは湊斗にとって期待外れな情報量だったが、息子の胸の内を知る由もない父は、わははと笑う。
「ねえ、おばあちゃん、お母さんはもう食べたの?」
おめでたい父を尻目に、湊斗は祖母に問うた。今朝の夢もあり、姿を見せない母のことが気にかかっていたのだ。
すると、祖母はやや渋い表情で首を横に振った。
「さっき声をかけたけど、今日も食欲がないって」
予想していた答えだったが、それでも湊斗の心は沈んだ。祖母が来てから、母はますます不調になり、寝室から出る機会もめっきり減っている。
「また食べてないのか。薬もあるのにな」
父が困り顔で呟くと、
「私が由紀子さん位の年には、パートに行って、家のこともして、それは大忙しだったわよ。まったく、どこの世界に嫁を介護する姑がいるんだか――」
祖母は呆れと苛立ち混じりでまくしたてたが、湊斗の硬い表情に気づき、とっさに口をつぐんだ。
「ま、まあ……誰だってしんどい時はあるもの、仕方ないわよね。お母さんには後でスープを持っていってみるから。さ、湊斗も早く食べなさい」
祖母は失言を取り繕うように、一転して優しい声で湊斗に語りかける。
「スープはぼくが持っていくよ、おばあちゃん」
トーストを手にした湊斗が言うと、祖母はうんうんと重ねて頷いた。
「そうだ、早いうちに車を取りに行かないとな。ついでに残った仕事も片づけてくるか」
一方、父は思いついたようにぼやくと、トーストを手早く食べ始めた。




