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The Blood in Myself   作者: すがるん
第2部 峡谷の底
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25 湊斗の記憶⑲~祖母の訪れ~

 祖母を呼ぶという父の提案を受けてから、またたく間に週末が訪れた。

 土曜日、珍しく父は朝から家にいて、駐車場で車を磨いていた。

(おばあちゃん、昼過ぎに来るんだっけ)

 父が昼食後に祖母を迎えにいくという話を反芻しつつ、湊斗は居間の押し入れを開けた。中から祖母のための布団を出すと、そのままベランダへ運ぶ。

「よいしょっと」

 湊斗は軽いかけ声とともに、掛け布団を欄干にかけた。すでに干していた衣類もあり、狭いベランダは洗濯物で埋め尽くされる。

 七月になると、太陽はいよいよその光を増し、少し動いただけで湊斗の体は汗ばんだ。

「あ~、暑い……」

 このありさまでは、じきエアコンを使うことになるだろう。湊斗は額の汗を手でぬぐいながら、ベランダの隅に置かれた室外機を見た。すると、その白い側面に、銀色の小さなものが張りついていた。

 湊斗は眉をひそめて、室外機に歩み寄る。

 それは、鋭く尖った虫の脚であった。細長く、研ぎ澄まされた剣を思わせる銀色の脚が四本。他の部分は隠れて見えないが、人の指が這うように、虫はゆっくりと室外機の奥へと姿を消した。

 ――もしかして、前に見かけた蜘蛛ではないか。

 なぜか、そんな考えが湊斗の頭をよぎった。今まですっかり忘れていたが、以前、このベランダに小さな蜘蛛が巣を張っていた。しかし、すぐいなくなったので思い出すこともなかったのだ。

(……まさか。サイズも全然違うし)

 あの時の蜘蛛の体長は1センチもなかったが、目の前に潜んでいるものは、脚の長さから、もっと大きいだろう。

 湊斗は身を屈め、そろそろと室外機の裏側を覗きこもうとした。

 その時、部屋の方でガチャンと鋭い音が響いた。皿でも割れたような音だ。

 湊斗は驚いて中へ駆け戻る。居間を抜け、隣の台所へ向かうと、やはり床にガラスのコップが割れて転がっており、母がそれを拾おうとうずくまっていた。

「お母さん、どうしたの!?」

「ああ、湊斗……流し台のコップを片づけようと思ったんだけど、落としちゃって……」

 母は寝間着のまま、よろよろと大小の破片を手で集めている。白いものもちらほら見える髪は長く伸び、うつむく顔を覆っていた。

 湊斗が流し台の食器置きに目をやると、朝食後に洗った皿やマグカップが数枚あった。母はこれらを戸棚へ戻そうとしてくれたらしい。

「ありがとう、お母さん。でも裸足だと危ないから、あとはぼくがするよ」

 細かな破片も辺りに散らばっているのに気づき、湊斗は母にそう声をかける。

「ごめんね、湊斗……」

 母は力なく床に座りこみ、ぼそりと呟いた。

「いいよ。調子が良くない時に、無理しないで」

 湊斗はできるだけ明るい口調で応じた。

(お母さん、いつもなら、しんどい時にこんなことしないのに)

 拾ったガラスの破片をビニール袋に入れながら、湊斗はふと考えた。祖母が来ることで、母なりに気を遣っているのだろうか。

 床のあちこちできらめく破片を前に、湊斗は人知れずため息をついた。



 祖母がやって来たのは、午後二時を少し過ぎたころだった。

 玄関のチャイムが鳴り、湊斗が飛んでいって開けると、両手にネギや卵などの食材が詰まったレジ袋を持った祖母が立っていた。

「おばあちゃん!」

「あらあら、湊斗、大きくなったわねえ」

 祖母は湊斗を見るなり、愛しげに目を細めた。

 祖母は六十代後半で、湊斗より小柄だが、ピンと伸びた背筋が実際の年齢より健康的な印象を与えている。また、小じわが刻まれた顔にはきれいな化粧を施し、短めの頭髪は黒く染められてあった。

「すごい荷物だね……あ、これ、ユニストアの袋!」

 祖母から受け取った袋の柄を見るなり、湊斗は声を弾ませて言った。ユニストアとは、湊斗が祖父母の家に住んでいた時、近くにあったスーパーである。

 湊斗が懐かしさに顔をほころばせて袋の中を確認すると、野菜などに混じって、お気に入りの缶ジュースも発見した。オレンジに目鼻がついたキャラクターの絵が描かれたものである。

「やった! おばあちゃん、これも買ってきてくれたんだね!」

「そうよ。湊斗、昔からこのジュースが好きだったでしょう? あと煮込みうどんの材料も買ったから、今晩作ってあげる」

「ほんと?」

 湊斗の表情が嬉しさでいっそう輝いた。祖母特製の煮込みうどんは手作りの味噌を加えるのが特徴で、湊斗や父の大好物なのだ。

「おーい、湊斗。これ、おばあちゃんの荷物だ。早く運んでくれ」

 祖母を居間へ案内し終わらないうちに、今度は父がふうふう言いながら戻ってきた。海外旅行もできそうな大きなスーツケースと、ボストンバッグを引きずるように抱えている。

「俊雄、あんた母さんよりずっと若いくせに、頼りないわねえ」

 これくらいで疲れるなんてと父にぼやき、祖母は居間へ向かう。堂々とした足取りは、さながら自分の家を歩くようだ。

「おふくろが元気すぎるんだよ。今日だって途中でユニストアへ寄るとか言い出して、人を引っ張り回すんだから。付き合う方の身にもなってくれよ」

 辟易しながら靴を脱ぐ父に、

「何言ってるの。あんたたちのご飯を買ったんじゃない。働かざる者食うべからずですよ」

 そう言って笑う祖母の目じりには、カラスの足跡に似たしわが寄っていた。二人のやりとりを眺める湊斗は、この家がこんなににぎやかになるのは初めてかも知れないと思った。

「さ、湊斗。おばあちゃんに学校のこと色々聞かせて」

 祖母に促され、湊斗と父が居間へ入った矢先、

「お義母さん――」

 後ろから、母のか細い声が聞こえた。

 皆が振り向くと、寝間着にカーディガンを羽織った母が消え入りそうに立っていた。

「ああ、由紀子さん」

 祖母が、たった今その存在を思い出したように呟いた。

「起きて大丈夫なの? 俊雄に大体のことは聞いてるわ。無理せず部屋で休んでなさいな」

「すみません、わざわざ来ていただいて……わたしも、できることはしますから……」

「誰も病人あなたにそんなこと期待してやしませんよ。由紀子さんのお世話もちゃんとしますからね。余計な気遣いはやめてちょうだい」

 祖母の言葉は母をいたわる内容だったが、ぴしゃりとはね除ける口調であり、母にそれ以上ものを言うことを許さなかった。

 ――この廊下、こんなに暗かったっけ。

 母と祖母の会話を聞きながら、湊斗はふとそんなことを思った。

 陽が入らないせいか、母が佇む薄暗い廊下と、自分たちがいる居間の明るさとが、湊斗にはいやにくっきり感じられた。二つの空間を遮る物はないはずなのに、見えない何かに、母と自分たちが分断されているような妙な心地に襲われた。

 

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