5 銀の幻影
見渡す限り、真っ青な空が広がっていた。一片の雲もない、清廉な世界。
あまりに澄んだ青空に見入っていると、ふと、上から点のようなものが舞い落ちてくるのが見えた。太陽の光を受けて銀色に輝きながら、それはどんどん降りてくる。風に乗る花びらのように、ふわふわと漂いながら。
だがそれが近づいてくるにつれ、花弁などではないことがわかった。
丸く膨らんだ腹、頭胸部についた無数の眼。そして左右に細く節立った八本の脚。
それは蜘蛛だった。人の顔ほどもある銀色の蜘蛛だ。四対の脚を広げ、頭上のすぐそこまで迫っていた。上顎から突き出た鋏角が、獲物を狩る鎌の如く、こちらめがけて鋭いきらめきを放った。
「――っっ……!」
恐怖で動けないまま、陸は目覚めた。
(夢か……?)
陸の眼前に広がるのは空でなく、闇に染まる自室の天井だった。とっさに視線を周囲に巡らせたが、もちろん蜘蛛は見当たらない。システムベッドの柵の向こうに、普段と変わらない和室があるだけだ。
(……変な夢……)
陸は気持ちを落ち着かせようと、仰向けのまま何度か深呼吸した。
どうしてあんな夢を見たのだろう。
陸は寝つきが良く、夢を覚えていることは少ない。怖い内容の類も滅多に見ない。だが今は、まるで本当に蜘蛛と遭遇したような恐怖が、ありありと胸に残っていた。
陸は頭の中で、悪夢の原因となる心当たりを探した。昨日観たテレビ番組、漫画、インターネット、ラジオ――やがて、一人の女性の面影が浮かぶ。
A棟の前で会った女性。確か、彼女から蜘蛛の話を聞いたのだ。
「そっか……そのせいだよな……」
陸はそう口に出して呟いてみたが、心臓は尚も早鐘を打ち続けていた。
翌日。
陸の社宅から自転車で二十分ほどの所に、私鉄の駅がある。およそ十五分間隔で、赤い電車が駅舎から姿を現し、線路を走っていく。
その周辺にアーケードの付いた商店街があり、突き当たりは四階建てのデパートだった。食料品の他に衣料品や本、雑貨店やゲームセンターも入った、地元では老舗の店らしい。だが陸はこの町に来るまで、そのデパートの名前を聞いたことがなかった。
正面入口から中へ入ると、すぐ右手に大きなソフトクリームの置物が見える。それが健太との待ち合わせの目印だ。
陸が着いた時、健太の姿はまだなかった。待つ間、陸は置物のそばに貼られたメニュー写真を観察することにした。
スイーツ系の店かと思いきや、ラーメンが主力らしい。とんこつや醤油ラーメンの写真がまず並び、途中からソフトクリームやパフェに変わっていく。この店も、東京では見かけなかった。
「うまそう……」
生卵やチャーシュー入りのラーメンを見る内、さっき家で昼食をとったのに、食べたくなってきた。店の奥から漂うとんこつスープの匂いも、陸の食欲を刺激する。
誘われるように、陸はひょっこりと頭を動かして店内を覗いた。
昼時を過ぎているためか、客はまばらだった。親子連れや中高生、年配の夫婦があちこちの席に点在する中、昨日見たばかりの顔があった。
その少年は壁際にあるテーブル席で、パフェらしきものを一人黙々と食べていた。しかも並のサイズではない。くるくる渦巻くソフトクリーム、プリンやいちご、チョコレートやシュークリームまで乗った特大パフェである。
(――え?)
陸はUFOでも目撃したように瞬きを忘れ、身を乗り出してその光景に釘付けになった。
白いパーカーにジーンズという出で立ちも、初めて会った時と同じだ。城の門番みたいなきついまなざしは甘党のイメージとは程遠かったが、高さ数十センチのパフェをパクパク口にしている。
「や……山那っ!?」
気がつけば、陸は店の奥に向かってそう叫んでいた。
「…………」
三景は店中の視線を浴びながら、スプーンを口に含んだまま陸を見た。すると三景はプリンを食べているはずなのに、苦々しく顔をしかめた。
「それ、どうみても二人で食うやつだろ」
陸は和風とんこつラーメンをすすりながら、目の前の三景に向かって言った。
陸は店内にいることを健太にメールすると、自分もラーメンを注文し、三景の前に座って食べ始めた。
「何食おうが俺の勝手だ。お前には関係ねえだろ。つーか、誰がここに座っていいっつったんだよ」
三景は不機嫌丸出しで、パフェに刺さっていたチョコレートを噛み砕いた。まるで獲物の肉を食いちぎる獣のように。
「どこに座ろうと、おれの勝手ですから」
陸も嫌味たっぷりに言い返すと、ホカホカと熱い湯気の上る麺に、ふーっと息を吹きかけた。
「おい、湯気でクリームが溶けるだろ!」
三景が怒髪天をつく勢いで声を荒げる。室内はゆるやかな冷房が効いており、三景の席は風下だったのだ。
「しょうがないだろ、猫舌なんだから!」
負けじと陸も怒鳴り返す。
「だったらそんなもん食うな!」
「嫌だ!」
「…………っ」
くだらない言い合いが馬鹿らしくなったのか、三景は陸を睨みつつ、溶けかけたクリームを口に運んで黙り込んだ。
陸も、少しずつ冷めてきたチャーシューを口に入れながら考えた。
何故、自分はわざわざここに座ったのか。
三景の反応は、やはり愛想のかけらもない。そもそも今日、陸は健太と約束しているのだ。
(――こんな奴、気づいても知らん顔すれば良かった)
自分は何かを期待していたのだろうか。
ふと浮かんだ思いを、胸の奥へ押し込むように、陸は生卵をずるっと飲んだ。最後の楽しみにとっておくつもりが、うっかり食べてしまった。
(あちゃあ……)
後悔したが吐き出す訳にもいかず、陸の気持ちは落ち込んだ。
さっさと食べて、この場を離れよう。
そう決めた時、陸の視界の上端に、きらりと光るものが映った。
「?」
右上の天井からだろうか、銀に光る一本の細い糸が垂れ下がっていた。
照明を受けた銀色の輝きに、陸の記憶が瞬時に夜へと巻き戻される。
――夢に現れた、銀の蜘蛛。
それに気づいた瞬間、陸の肌が粟立った。所詮は夢だと、すっかり忘れていたのに。
いつの間にか、銀の糸は陸の頭上で揺れている。
こんなものが、いつからあったのだろう。テーブルについた際、見た覚えはなかった。ただの糸だと自らに言い聞かせても、陸は硬直したようにそこから目を離せない。
だが不意に、前方から手が伸ばされた。手は陸の髪にわずかにふれると、頭上の糸を払うような動きをした。
それは、真っ直ぐな目をした三景の左手だった。そんな瞳を向けられるのは初めてだった。柔らかな風が通り抜けるような指の感触に、陸は緊張がほぐれ、余分な力が抜けていく。
「…………」
一瞬何が起きたのかわからず、ポカンとする陸に、
「ゴミだ」
三景は短く呟くと、また元の仏頂面でパフェを食べ続けた。
陸はおずおずと天井を見上げたが、先ほどの糸はもうどこにもなかった。
そんな折、
「遅くなってごめん、陸! ……あれ、やんちゃん?」
バタバタという足音と共に、ようやく健太が到着した。