表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The Blood in Myself   作者: すがるん
第2部 峡谷の底
47/75

16 湊斗の記憶⑩~濁り~

 日曜日。

「お母さん、ちょっと走ってくるね」

 湊斗は玄関から居間の方へ、弾んだ声をかけた。速乾性の白いTシャツに黒のハーフパンツ姿で、靴棚からランニング用のスニーカーを取り出した。スニーカーには黒地に紫で『N』のロゴが入っている。

「気をつけてね、湊斗」

 ほどなく、居間から母が顔を出した。寝間着の上にカーディガンを羽織っている。時刻は十時を過ぎていたが、今日の母は具合が落ち着いていて、起きていられそうだと言う。

「うん。自転車で堤防まで行ってランニングして、帰りに買い物してくるから。昼前には戻るよ」

 湊斗はそう言いながら、やや手狭な玄関にスニーカーを置いた。父は会社の同僚とゴルフをするという話で、朝から家を出ている。

 湊斗は腰を下ろすと、パカッと口を開けたようなスニーカーに両足を入れた。右、左と、慣れた手つきで靴ひもを穴へ通し、途中でほどけないよう、しっかりと結ぶ。

「よし」

 満足げな表情で、湊斗は立ち上がった。

「じゃあ、行ってきます」

 湊斗は晴れやかに母に笑いかけてから、勢いよくドアを押した。分厚く重いドアがギギッと音を立てて開いた先には、梅雨の中休みの青空が見えた。



 棟を出た湊斗は、まっすぐ手前の駐輪場へ向かった。屋根つきの駐輪場には、様々な大きさや形の自転車がずらりと並んでいる。

 湊斗が自転車の鍵を手に、うろうろしていると、

「あら、湊斗くん。お出かけ?」

 背後から、年配の女性の声に呼びとめられた。

「あ……どうも」

 湊斗は振り向きざまに、軽く会釈をする。そこには、ちょうど同じタイミングで駐輪場にやってきたらしい、二人組の女性がいた。

「今日はいいお天気だものねえ。そういえば、お母さん大丈夫?」

 湊斗に声をかけてきた女性が、やや大げさに気遣う口調で話し続けた。彼女は湊斗と同じA棟に住む庄野という女性で、母と変わらない年代のようだった。

「ええ、まあ……」

 湊斗は曖昧にうなずきながら、自分の自転車を見つけ出そうと意識を集中させた。庄野の視線はいつも無遠慮で、こちらを探っているのではないかと感じさせる。言い知れぬ居心地の悪さで、湊斗は以前から彼女が苦手だった。

 幸い、湊斗の努力が報われて、自転車はすぐに見つかった。これ以上何か聞かれる前に、湊斗は濃いグリーンの愛車を急いで引き出した。一応、もう一度だけ庄野の方へ頭を下げると、女性たちも穏やかな愛想笑いを浮かべた。

 しかし、自転車をこぎ出した湊斗の耳に、かすかだが庄野たちの会話が飛び込んできた。

「あの子の母親がそうなの?」

「ええ、ずっと病院通いよ。旦那さんは出世頭なのにねえ。外面が良くても、中では色々あるんじゃない? ほら、モラハラとかDVとか――」

 湊斗の両手に思わず力が入り、ハンドルを握りしめていた。

(……何だよ、それ)

 もう聞こえていないと思ったのだろう。だが、事情を知りもしない人間の口から出た言葉は、湊斗の心を容赦なく踏みにじった。胸の奥底で、怒りと苛立ちが、黒いかげろうのように揺らめくのを感じた。

 せっかく、今日は母の調子が良かったのに。楽しい気分は一瞬で台無しになってしまった。

(あいつら、転んでケガでもすればいいのに――)

 湊斗はペダルを踏む足に力をこめ、そう毒づいた。



 それでも、社宅の敷地を出た湊斗は気を取り直して、二階建てや三階建ての家が並ぶ道を抜けていった。しばらく自転車をこぎ進めると、町を南北に流れる川沿いの土手の前に出る。ここが、堤防と呼ばれる場所だった。

 しばらく手入れされていない土手は草が伸び放題で、所々にある石段をほとんど覆い尽くしてしまっている。そして、自転車の湊斗が上の道へ行くには、近くの長い上り坂を越えねばならなかった。

「よし!」

 湊斗は馬力をつけ、腰を半分浮かせながら坂道を上っていく。途中、自転車を押して歩く子どもや通行人を追い抜くと、一気に上の道までたどり着いた。

 天気の良い休日のためか、そこにはすでに人の姿がたくさんあった。湊斗のようにランニングに精を出す男性や、犬の散歩をする年配の女性。そして土手の下に広がる空き地では、老人たちが集まってゲートボールに興じている。

(ああ、風が気持ちいいな)

 湊斗は自転車から降りると、空き地のようすを眺めつつ、立ち止まって、空気をめいっぱい吸い込んだ。湿気もほとんどなく、走りやすい貴重な晴れ間だった。空き地の先へ目をやると、社宅や、今しがた通った住宅街も見える。

 鮮やかな晴天と広い町並みを眺めるうちに、湊斗の気分もずいぶん良くなっていた。

(あのガードレールの横に自転車を停めて、スタートするか)

 湊斗は息を整えながら、道の前方へ視線を向けた。数メートル手前から道幅が少し広がって、歩道と白いガードレールが整備されている。そこに駐輪し、軽くストレッチをしてから、いよいよ走り出す……というのが、湊斗のランニングのパターンだ。

 ところが、

(ん?)

 この日は先客がいた。ジャージ姿の少年が、湊斗より一足先に、ガードレールに両手を置いてストレッチに取り組んでいる。

 湊斗は立ち止まったまま、その少年を凝視した。遠目だが、見覚えのある横顔は。

「……山那?」

 小声のつもりであったが、その呟きが風に乗って届いたかのように、三景がゆっくりと湊斗の方を振り向いた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ