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The Blood in Myself   作者: すがるん
第2部 峡谷の底
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15 湊斗の記憶⑨~家にて~

 湊斗が帰宅した時、母は寝間着姿のまま、ベランダに面した窓の前でぼんやりと座っていた。

「……お母さん」

 湊斗が後ろから声をかけても、母には聞こえていないようだった。今朝、母はしんどいと言い、湊斗や父が家を出るまでベッドから起き上がれなかった。心配ではあったが、以前からしばしば見られる症状でもある。湊斗はコンビニへの寄り道を後悔したが、同時に、リナと話した夢のような淡い余韻が、一瞬で弾けて消えてしまうのを感じた。

「お母さん、何してるの?」

 気遣うつもりでかけたはずの言葉に、わずかだが苛立ちがこもったことに、湊斗は自分でも驚いていた。

 だが、その台詞は母の耳に届いたらしく、母はおずおずと振り向いた。

「ああ、湊斗……帰ってきたのね。ごめんなさい、お母さん、気がつかなくて……」

 ようやく我に返った母は、ふらふらと立ち上がろうとする。湊斗はスクールバッグを置いて、母のもとへ飛んでいった。

「いいんだよ。お母さん、起きたりして大丈夫?」

 湊斗は脇から母を支えながら、少しでも苛立ちを感じた己を恥じた。

「お母さん、気がついたらここにいたの……ぼうっとしちゃって、本当にだめよね……」

 うなだれる母。ほとんど屋内にいるせいか、母の顔色はつねに青白い。

「そんなことないよ。でも薄着だし、風邪ひいたら大変だから、部屋で休んでて」

 湊斗は大きく首を横に振って、そう言った。

「けど、晩ごはんの支度しなきゃ……湊斗、宿題があるでしょう?」

「それは調子のいい時にしてくれればいいよ。今日はぼくが簡単なもの作るから」

 湊斗はできるだけ明るい口調を心がけた。母に言われるまでもなく、明日までにやらなくてはならない数学や英語の課題がある。しかし、こんな状態の母を、台所に立たせるわけにはいかないではないか。

(そうだ。今は、ぼくがちゃんとしないと)

 湊斗は内心でそう呟くと、いつの間にか自分より小さくなった母を見下ろした。背中まで伸びた母の髪には、最近、ちらほらと白髪が混じり始めていた。



 その日の夜。

「湊斗、ちょっといいか」

 という父の声がしたのは、ひとまず数学の課題が終わりかけたころだった。湊斗が机から腰を上げて、自室の引き戸を開くと、やはり父が立っている。父は帰宅して間もないため、まだ背広も脱いでいない。

「お父さん、夕飯ならカレーがお鍋に……」

 湊斗はてっきり食事のことで来たのだろうと思い、先ほど父に言ったことを繰り返した。暇な時は父が着替える間に夕飯を用意してやるのだが、今日はあいにく、課題に追われている。

「ああ、それはわかってる。お前の勉強の邪魔はしないよ」

 父は機嫌がよいのか、ほがらかに頷くと、左手に持つ一冊の本を差し出してきた。

「受験用の問題集だ。出張ついでに、駅前の本屋で買ってきた」

「ええっ?」

 すっとんきょうな声を上げる湊斗。本を受け取ってみると、自分の不得手な数学の内容だった。

「お前、数学が苦手だろう? そういうものこそ克服しないとな。もちろん、得意な教科はもっと伸ばしていくんだぞ。本当なら、塾にも通わせてやりたいが……」

「お父さん、塾なんかいいって。スマホの進学サプリ使えば、十分だよ」

 湊斗はやれやれというように肩をすくめた。母の世話と日々の課題と部活。これだけでもう湊斗のスケジュールはいっぱいなのだ。それに、もし仮に湊斗が塾通いを始めたら、調子の悪い母の面倒を誰がみるというのか。そのため、湊斗はもっぱらインターネットの受験対策サイトを利用している。

「湊斗。父さんはな、お前にちゃんと大学まで行ってほしいんだ。そのためにも、高校選びは重要なんだぞ。父さん自身が高卒だからよくわかる。就職のためにも、学歴はやっぱり必要になるからな」

 これは、今までに何度も聞かされた話だった。父の育った家庭はあまり裕福でなく、高校を卒業してすぐに働き始めたこと。すでに大学進学率の高かった時代で、父は現在の会社に入ってからも、周囲との学歴差に負けず努力して実績を作ってきたこと。湊斗もそらで繰り返せるほど、頭にすり込まれている。

「お父さんの話もわかるけどさ、ちょっと気が早いよ。それに、前にも言ったけど、高校は南高が妥当じゃないかな。あそこなら家から自転車で通えて、成績もちょうどいいし――」

「南? あの公立か」

 湊斗の話を遮る形で、父が呟いた。眉間にしわが寄っている。

「父さんは私立の方が良いと思うがな」

「私立だと、家から遠くなるよ。お母さんのことがあるし、近くの方がよくない?」

「……」

 息子の意見を聞いて、父はしばし黙りこんだ。何かを考えるような表情を浮かべていたが、

「まあ、まだ六月だからな。志望校をすぐ決めることはない。母さんの件は、父さんも少し考えてみよう」

 そう言うと、父は居間の方へ戻っていった。

(お父さん、考えって何だろ?)

 湊斗は再び机に向かいながら、さっきの父の言葉を思った。そして、父が買ってきた問題集をぱらぱらとめくってみたが、台形やら三角形などの図形や、証明の問題文を見ただけで、早くもうんざりしてしまう。

(そういえば……)

 湊斗の脳裏に、リナの面影がふっと浮かんだ。昼間、風の向こうから現れた彼女は、今ごろどんなふうに過ごしているのだろう。それを考えると、湊斗の意識まで、ふんわりした風に乗ってどこかへ舞い上がりそうな心地になる。

「……いけない、勉強勉強」

 湊斗はすぐ現実に戻ると、自分を鼓舞するように肩をぐるぐる回し、課題の続きに取り組んだ。

 


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