10 湊斗の記憶④~父~
学習机の隅に置いてあったスマートフォンが、突然ブルブルと震えた。
英語の教科書とノートを広げてにらめっこしていた湊斗が顔を上げ、スマートフォンを手にする。画面をのぞくと、父から帰宅を知らせるメールが入っていた。
「あ、もう九時か……」
お風呂、沸かさないと。
湊斗はスマートフォンを机に戻すと、立ち上がって隣の浴室へ向かった。この社宅から、父が勤める会社までは車で十分ほどの距離だ。まもなく帰ってくるだろう。
浴槽に湯を張った後、湊斗は母が休む洋間の扉をそっと開け、中のようすを伺った。室内の電灯はすでに消え、こんもりと人型にふくらんだベッドがおぼろげに見える。
(お母さん、ゆっくり寝れるといいんだけど)
かすかなため息をつきながら、湊斗は自室へ戻った。そのまま机に座りかけたが、
「そろそろ帰ってくるかな、お父さん……」
ふとそんな気がして、湊斗は机のそばにある窓へ近づいた。薄緑色のカーテンを少しよけ、外を眺めてみる。ここは一階の角部屋にあたるため、社宅の出入口付近からは近い位置にあった。
ちょうど一台の車が、社宅の正門へ入ってくるのが見える。街灯の光で、それが白のトヨタカローラとわかった。見慣れた形状は、おそらく湊斗の父のものだ。
だが、白いカローラは敷地内に乗り入れた直後に停車した。いつもなら、自分たち一家が住むA棟正面の駐車場まで来るはずなのに。
「ん?」
普段と違う動きに、湊斗は怪訝な顔で車を注視する。
するとカローラのドアが開き、助手席から人が出てくるのが見えた。車内に向かっておじぎし、歩き出したのは、見知らぬ若い女性であった。
(……)
湊斗は、思わず窓に顔を押しつけていた。
街灯のまぶしい光に、女性の白い肌が浮かび上がって見えた。細身で、明るい茶色のショートヘアに黒いスカートスーツ。女性は再びカローラの方へ頭を下げると、トートバッグを肩にかけ、疲れを感じさせない軽やかな足取りで奥へと消えていく。
(この社宅の人……? お父さんと同じ会社の人なのか――)
女性を下ろしたカローラは、予想通りA棟の駐車場に向かう。湊斗は外をぼんやり見つめながら、そんなことを考えていた。その後どういうわけか、まばたきするたびに瞼の裏に女性の白い肌が残像となって浮かび、なかなか消えなかった。
「ああ、神崎くんのことか」
ほどなく帰ってきた湊斗の父が、居間のちゃぶ台で缶ビールを飲みつつ答えた。
「四月に入ったばかりの新人で、父さんの係に配属された子だ。ここのD棟に住んでるぞ。今日は彼女も残業で、帰りが一緒になったから送ってあげたんだ」
「そっか……」
湊斗はそれを聞きながら、父の正面に座った。D棟はこの社宅の一番奥にあり、主に単身赴任や独身の社員が住んでいるという。
「それより湊斗、母さんの具合また悪いのか?」
女性の話題が一段落すると、今度は父が湊斗に訊ねてきた。湊斗は頷くと、昼間の母の状態について大まかに説明した。
父はコンビニの袋からイカフライを取り出し、
「困ったもんだな、母さんも」
一口かじりながら、頭を軽く左右にふって呟いた。そして、
「父さんが忙しい分、お前には母さんのことで色々と面倒をかけるな。でも湊斗、お前は強くならなきゃいけないぞ」
力のこもった口調で言った。
「強く……?」
「そうだ。母さんは弱い。つまり能力がないから、ああなるんだ。だけど、お前はそんなふうになっちゃいけない。父さんの子だからな。がんばって乗り越えないと」
父はそこまで言い終えると、缶ビールの残りをぐいっと飲み干した。しかし、湊斗は考えこんで、何も答えることができなかった。
(お母さんの心が不安定なのは、お母さんが弱いから? 本当に、そうなのか?)
――ごめんね、湊斗……。
数時間前に聞いた母の悲しげな顔と言葉が、湊斗の脳裏をぐるぐると回った。母はしんどい時や、家のことができない時に、いつも父や湊斗にひたすら謝るのだ。はたして、それはいつからだっただろうか。
湊斗は目を閉じて思い出そうとしたが、結局すぐにやめてしまった。なぜなら、誰にも謝っていない母の記憶が、ほとんどないことに気づいたからであった。
今回はもう少し早めに更新したかったのですが、何やかやしているうちに、気づけば年末になってしまいました。都合で不定期更新になることがあるかもしれませんが、今後もこのシリーズを書き続けていくつもりです。ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。まだまだ未熟ですが、来年も作品を通してお会いできれば幸いです。皆さまもどうか良いお年をお迎え下さい。




