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The Blood in Myself   作者: すがるん
第2部 峡谷の底
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9 湊斗の記憶③~母~

「岡先輩、ほんますいませんでした!」

 残された中井が湊斗に頭を下げると、先ほどの男子生徒の無礼を代わりに詫びた。

「いいよ、そんなの。全然、中井が謝ることじゃないって」

 湊斗が明るい声で応じると、中井はようやく安心し、ため息をついて言った。

山那あいつは、悪気はないんやと思いますけど、いつもあんな感じなんです。あとでよう言っときます」

「そうみたいだね。百聞は一見に如かずってやつかな」

 湊斗は苦笑いしながら、下足室の出入口に向かう。中井も先輩を見送るように、並んで歩いた。

「本人と話したおかげで、中井の話が何となくわかった気がする。彼、ちょっと個性的だね」

 以前、中井があの男子生徒について評した際、そこには相手への戸惑いと不可解さがにじんでいた。それが腑に落ちない湊斗だったが、今なら、自分も中井と同様の反応をすると理解できた。山那という一年生は、それくらい訳のわからない印象を湊斗に与えていたのだ。

「先輩もそう思います? あいつは運動も勉強もできるのに、賢いんかぼけとるんか、未だにようわかりません」

 中井は匙を投げるように肩をすくめると、

「そういえば先輩、もう帰りはるんですか?」

 当初の会話を思い出したのか、改めて問うた。

「うん、今日は部活休むよ。家の用事があってさ。先生にも伝えてあるから」

 まもなく外へ出ると、穏やかな青空と日射しが湊斗たちを迎えた。正門の付近には、下校する生徒や、ジャージで外周を走る生徒たちの姿があった。また、左側にプールがあり、それを囲うフェンスには『一人はみんなのために みんなは一人のために 市立第2中学校生徒会』と書かれた大きな白布が掛かっていた。

「中井、お前もそろそろ掃除に戻らないと。本当にサボり扱いされたら大変だろ?」

 湊斗の言葉に、中井はようやく当番のことを思い出したらしく、あたふたと慌て始めた。

「うわ、忘れとった……日誌に書かれたらえらいこっちゃ。ほんな

らオレ戻ります。岡先輩、お疲れさまでした!」

「うん、お疲れ。部活もがんばれよ」

 せわしなく走り去る後輩の背中に、湊斗は朗らかに笑って声をかけた。



 湊斗は学校を出ると、ほどなく住宅街を歩き始めた。

 道路の両側には、屋根の色くらいしか差のない家がいくつも建っており、小学生とおぼしき子どもたちがはしゃぎ声を上げて駆け回っていた。そこを抜けると、道幅の広い十字路が現れ、そばには小さな花壇があった。

 湊斗が花壇のそばを通った時、やわらかい風が吹いた。すると花壇に咲く赤や黄色の花が揺れて、つややかな香りを運んでくる。湊斗は無意識に深呼吸すると、左右から来る車がないことを確認し、さらにまっすぐ進んだ。

 やがて、この辺りの目印でもある、送電用の巨大な鉄塔の下で道を曲がった。そして少し歩くと、古びた鉄筋コンクリートの建物が四つ、見えてくる。敷地は三方を金網で囲まれ、唯一開け放たれた出入口の門には『株式会社四井商事 社宅』と書かれていた。

 社宅の敷地内には芝生が広がって、数本ある桜の木は、すっかり緑の葉に覆われている。芝生で三輪車に乗る子どもや、それを見守る母親たちを目に映しながら、湊斗は四棟のうち『A棟』と書かれた建物へ入った。そして、ずらりと並ぶ住人用のポストを確認した後、ズボンのポケットから鍵を出し、奥のドアに挿し込んで回す。と、水色に塗装されたドアが、ギッと軋みながら開いた。

「ただいま――」

 湊斗はせまい玄関でそう言ったが、家の中はしんと静かだった。小さくため息をつきながらスニーカーを脱いで、湊斗はすぐ手前の洋間を覗いた。そこには大きなベッドが一つあるが、誰もいない。

「……お母さん、起きてるの?」

 湊斗は怪訝そうに呟きながら、廊下の左右にある洗面所や台所を覗いていく。ほどなく、台所の引き戸が少し開いているのに出くわした。が、引き戸は磨硝子になっていて、奥のようすはぼんやりとしか見えなかった。

 湊斗は足早に台所へ入り、引き戸に手をかけた。滑りの悪い引き戸は、ガタガタと重い音をたてて動く。その先にあるのは、六畳の和室だった。真ん中に円形の食卓が置かれ、壁際にテレビもあったが、何も映し出していない。湊斗がベランダ側へ目をやると、吐き出し窓が半ば開いたまま、そこにもたれて座りこむ女性の姿があった。

「お母さん!!」

 湊斗は思わず叫びながら、肩にかけていたスクールバッグを放り出し、その女性――湊斗の母のもとへ駆け寄った。

「ああ、湊斗、おかえり……」

 ぐったりしていた母が、面を上げ、弱々しくほほえんだ。しかし顔は青ざめて、前髪のすきまから見える額には、じっとりと汗が浮かんでいる。

「お母さん、大丈夫!?」

 問いかける湊斗の顔からも、血の気がひいていた。

「大丈夫、ちょっとしんどくなっただけよ……。洗濯物くらい畳めるかと思ったんだけど、ごめんね……」

 力なく答える母の周りには、確かにベランダから取りこんだらしい衣類やタオルが散らばっている。

「こんなの、ぼくがやるから。お母さんは無理しないで休んでてよ」

 湊斗はそう言いながら、散乱した洗濯物をかき集めて一ヶ所にまとめていく。

「ごめんね、湊斗……」

 湊斗の背中に向かって、母は何度も謝り続けた。その言葉を聞くうちに、湊斗の表情が鉛でも飲んだように曇っていく。

 だが、湊斗はわずかに首を振ると、次の瞬間にはそんな暗さを打ち消す笑顔を作った。

「お母さん、立てる? ベッドで横になった方がいいよ」

 そして母の方へ向き直り、そっと手を差しのべた。

 

 


 


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