3 困惑
柱にかけてある八角形の時計の針が、ちょうどL字型になった。
「……三時か……」
自室のベッドに寝そべって、陸は気だるげに呟いた。
この日、陸は午前中に退院が許可され、昼前には母と帰宅していた。まだ引っ越して半月ほどの住まいだが、四畳半の和室で幅をきかせるシステムベッドを見た時、
(ああ、帰ってきたんだ)
と実感したのだった。
「はあ……」
陸は大きなため息をついて、ごろんと左に寝返りをうった。しかし落ち着かない様子で、すぐ反対側に向きを変える。先ほどから、そんな動作を繰り返していた。
体調が悪いわけではない。むしろ、病院の検査で異常なしと判明した位だ。三景に噛まれた首筋の傷も、一羽の言葉通り、朝にはきれいに消えていた。それでも、陸の気分は一向に晴れなかった。
(あいつ、何だってあんなこと……)
ありありと思い出されるのは、昨夜の体験。正確には、病室で三景に血を吸われた後のことだ。ベッドで陸を捕らえたまま、三景はあろうことか――。
「あ~~~っ、もう!!」
互いの唇が重なった時の柔らかい感触が甦ってしまい、陸は布団を頭から被り、芋虫のように身悶えた。
(ファーストキス……だったのに……)
その時、枕元に置かれた携帯電話が、ブルブルと震えた。
「!?」
陸は一瞬緊張したものの、すぐさま腕を伸ばし、携帯を取った。それはクラスメイトの健太からのメールで、学校を休んだ陸を心配する内容であった。
「……ケンケンか……」
陸は相手が健太だとわかった途端、へなへなと気が抜けた。同時に、自分が心のどこかでひどく落胆しているのを感じとった。
(もしかして、おれ、期待してたのか?)
その時、陸の頭に浮かんだのは三景の顔だった。
(あほらしい。ていうか、あいつとメアドとか交換してないし)
そもそも、三景が携帯やスマートフォンの類を持っているかさえ知らないのだ。
「考えてみれば、その程度の関係なんだよな……おれたちって」
自分でも気づかぬうちに、ぽつりとそうこぼす陸だった。
(あ~あ……)
なぜか気持ちがしゃんとせず、ベッドから出る気になれなかった。
(でも、ケンケンにレスしないとな……)
せっかく健太がくれたメールを放っておくのは悪い。陸はのろのろと携帯電話を握り、届いた文面に再び目を通した。そうするうちに、
(山那、学校行ったのかな)
ふとそんなことを思った。
健太のメールには、三景については何も書かれていない。夕べ、三景が陸の病室をあとにしたのはもはや深夜近くだった。あれから三景がどうしているのか、わからないままだ。
「おれが心配したってしょうがないけど――いや、あいつの心配なんかしてないぞ、おれは!」
陸は絶えず独り言を言い、布団の中で頭を横に振った。だがすぐに、はたと我に返ったように動きを止め、
「おれ、何言ってんだろう……」
今度は悲壮な声で呟いた。急に自分がみじめに思えて、がっくりと頭を垂れる。
その時、部屋の引き戸が突然ガラリと開けられた。びくっと身をすくめる陸の前に、妹の海が顔を見せた。
「お兄ちゃん、おやつ! ママがワッフル早く食べなさいって」
「……海、ノック位しろよ」
陸は携帯を置いて起き上がると、嘆かわしく呟いた。人があれこれ悩んでいる時に、妹はどうしてこう呑気で無神経なのか。
「だって、お兄ちゃんがさっさと来ないからでしょ」
しかし海は兄の苦情など、どこ吹く風といった様子である。
「おれ、今日はおやついらない……お前にやる」
「えーっ? お兄ちゃん、またどっか悪いの?」
すっとんきょうな声を上げる海に、
「そうじゃないけどさ。兄ちゃんは色々ありすぎて、もう腹いっぱいなんだよ」
陸は気のない口ぶりで答えて、再びベッドに寝転んだ。
「何それ、よくわかんない。でも海だって食べれないよ。海、今日からダイエットするんだもん」
どういう訳か、えっへんと胸を張りながら宣言する妹に、陸は思わず耳を疑った。
「ダイエット? お前、何言ってんだ? そんなの、どうせ続かないって」
妹の海は、これまでにもマラソンやピアノなど、始めると言ってはやめるのを繰り返してきた。何がきっかけか知らないが、また妙な気を起こしたらしい。
「ダイエットするの! 海ももっと細くなって、ゆうりちゃんみたいになるんだから!」
頭ごなしの兄の言葉に、海は強気で反論した。ゆうりちゃんというのは、女子小学生に人気のインターネットアイドルで、海もしばしば彼女の動画を観ている。
「そうですか、はいはい」
兄の投げやりな態度に、海は眉毛を逆立てた。ダイエットする本当の理由は、昨日見かけた兄のクラスメイト――まだ名前も知らないが、海は一目見るなり、憧れてしまった――に近づけるよう、もっと可愛くなりたいからだった。しかし、このぐうたらした兄に、間違ってもそんなことは教えたくない。
ふいに、玄関のチャイムがピンポンと鳴った。ほどなくして、玄関へ向かう母の足音が響く。
「誰か来たのか?」
陸と海が、怪訝そうに顔を見合わせていると、
「陸、クラスのお友達がお見舞いに来てくれたわよ~!」
母の甲高い声がした。
「友達? クラスの?」
陸は慌てて上体を起こすと、携帯を覗きこんだ。だが、健太のメールには、陸の家に行くなどとは一言も書かれていない。それどころか、健太はまだ陸の家を知らないはずだ。
(じゃあ、誰が――?)
陸が考えるより先に、廊下の奥から、黒いまなざしが光を放ったように見えた。一方、海は母に連れられた客に気づくと、
「びゃああ!」
奇妙な叫び声を上げて、軽く飛び上がった。
やって来たのは、制服姿の三景だった。




