28 三景③
夜が更けて、病棟は深い闇と静けさに包まれていた。
(……眠れない……)
陸は何をするでもなく、ただ病室の暗い天井を見つめていた。微熱はすでに下がったものの、なかなか寝つけずにいた。
(当たり前だよな。あんだけいろんなことがあったんだから)
陸はベッドの上で何度も寝返りをうちながら、これまでの出来事を振り返る。
陸のもとに現れた『影』――巨大な銀の蜘蛛、そして死んだ岡湊斗に瓜二つの少年。それらの存在は陸に大きな衝撃や恐怖をもたらした。しかし、何より陸の心を占めているのは、
(山那……)
陸を『影』から守っていてくれたはずの、三景のことだった。
『本能では、あなたの血を求めているはず』
先刻、見舞いに訪れた一羽の台詞が甦る。
そして、贄という単語もまた、陸の胸にこびりついていた。自分は三景にとって贄という存在であり、三景は体を回復させるため、この血を欲しているのだと。
(本当に、おれの血を――?)
三景や一羽が超常的な力を持っているのは身をもって理解していた。それでも、人の血を求めるという話は、にわかには信じ難い。
「……ああ、もう!」
陸は頭を左右に振りつつ声を上げると、えいやっとベッドから起き上がった。
陸は表情を曇らせ、再び病室の窓辺に立った。背後にあるベッドの上には、携帯電話が無造作に置かれている。
(せめてラジオがあれば、『スクール・ファン』が聴けるのに)
闇の中、鞄から取り出した携帯電話には、電池がほとんど残っていなかった。他に気を紛らわす方法を探すように、陸は白いカーテンを開け、闇に沈む町並みを見つめた。
住人たちの多くは眠りについているのか、町の灯りは途切れた数珠のごとく、ぽつぽつと点在しているのみだった。そして夜空には相変わらず丸い月が浮かんでいたが、まもなく、もやに似た雲に覆われて、何も見えなくなった。
その時、入口の方からかすかに物音が聞こえた気がした。
驚いた陸が振り返った先で、扉の前にひかれた薄黄色のカーテンが、ひらりと揺れる。
「!?」
陸は飛び上がって後ずさるが、開かない窓に体をぶつけただけだった。
(誰か部屋に入ってきたのか?)
陸の脳裏に浮かんだのは、自分を何度も脅かした銀の蜘蛛。あるいは岡湊斗の姿をした『影』であった。
(もしかして、あいつらが、また……!?)
警戒する陸の目に、ベッド脇にあるナースコール用の押しボタンが映る。
(『領域』じゃないなら、あれを押せば、誰か来てくれる――)
陸がベッド脇へ走り寄ってボタンを押そうとした瞬間、カーテンがゆっくりと開かれる。その奥には、闇においても鋭い眼光を放つ、漆黒のまなざしがあった。
「え……」
相手を認識した陸の瞳が、大きく見開かれる。
「山那……?」
陸の言葉通り、そこには、白いパーカーとジーパン姿の三景がいた。
時刻は十一時を過ぎているはずだった。人を見舞う時間ではないし、そもそも病院の関係者でない限り、院内に入ることさえできないと思われた。
『今はとても中途半端で、不安定な状態なの』
再び、一羽の言葉が陸の胸に浮かぶ。贄の問題がある以上、一羽は陸と三景が会うことを危惧しているらしかった。
しかし、今、自分たちはベッドを挟む格好で向かい合っていた。三景が『領域』で負った傷は見当たらないものの、やや顔色がすぐれず、疲れているように見える。
「……」
茫然と立ち尽くす陸に、三景が沈黙を破って言葉を発した。
「お前、熱あんだろ。何で起きてんだ」
「なっ――!?」
三景の発言は陸の全く予期せぬ内容だった。しかも自らの突然の来訪を棚に上げた言い草に、陸は虚をつかれる。だがそれに触発されたのか、やがて陸の口から、言葉が堰を切ったように溢れ出てきた。
「しょうがないだろ、寝たくても寝れないんだから! それに、そういうお前はどうなんだよ!? おれに血をくれたって――」
すると、陸にきつい目線を送っていた三景の表情に、ふっと翳りがさした。
「……姉貴に聞いたのか」
三景の問いに、陸はゆっくりと頷いた。姉貴という一言に、一羽と三景が本当に姉弟なのだと感じながら。
陸の反応に、三景は小さくため息をつき、
「蜘蛛の昇華さえ済めば、お前には関わらないつもりだった」
ぽつりとそうもらした。
「お前が俺の贄であろうがなかろうが、俺はそんなもんに頼るつもりはなかった。お前のためじゃなく、俺のために」
それは、陸が初めて聞く三景の思いであった。三景はややうつむきがちで、その面立ちには苦渋の色が浮かんでいた。
「元々、俺たちの一族は『影』と人が交わったのが始まりだと伝えられてる。つまり、俺や姉貴にはあの蜘蛛と同じ『影』の血が流れてるってことだ」
その内容に、陸は驚きを隠せなかった。自分を襲った銀の蜘蛛や、岡湊斗の姿をした『影』。彼らと対峙していたはずの三景たちも、『影』の血をひく存在だというのか。
「昔から、俺はそれが嫌だった。俺たちに受け継がれた、人の血を吸う性質も。今まで、誰かの血が欲しいなんて思ったことはなかったし、もしそんなことをすれば、自分も『影』と同じになっちまう気がした」
陸は、『影』が人の魂を食らうという話を思い出していた。確かに、人の血を求めることは、通常の人間では考えられない行為であり、『影』と相通じると言えるのかも知れなかった。
「……けど、お前に会ってから、そうじゃなくなった。衝動を、抑えられない――」
不意に、三景が低い声で言う。端正な顔を忌まわしげに歪ませた様子は、にじみ出る疲労感と相まって、手負いの獣に似た雰囲気を放っていた。
(……?……)
同時に、どこからともなく、ひんやりした風が流れてきた気がして、陸は肌が粟立つのを感じた。
三景はしばし、陸の姿を黒い双眸に映すのみであったが、
「俺は、お前の血を吸いに来た」
何かを振り切るように、はっきりとそう告げた。
「……え……」
その言葉に、陸は呼吸をするのも忘れて固まった。三景がここに来た理由を考えれば、予想できた内容である。しかし、いざとなると心も頭も凍りついて、どうすればいいのかわからなくなってしまった。
「……でも、お前にも断る権利がある」
そんな陸に、抑揚のない声で、三景が付け加える。
「俺の贄になりたくないなら、それを押せ。篠田」
そう言って、三景は陸が持つボタンを顎で示した。
「……」
陸はゆっくりと視線を動かすと、手元の小さなボタンを凝視した。
「そいつを押せば、すぐに看護師が来る。そうすれば俺はここを出て、姉貴の言う通り、二度とお前には会わない。でも、もしお前がそれを押さなかったら――」
三景は陸を捉えたまま、一瞬だけ言葉を切って、
「お前を俺の贄にする。贄になるってことは、お前はこれから先、俺が『影』と戦うたびに、俺に血を吸われ続けるってことだ。だからどうしたいか、お前が選べ」
見えない刃を突きつけたのだった。




