22 陸⑦
「うわああっっ!!」
陸は、窓の向こうで赤く燃える蜘蛛の眼に、叫びながら後ずさった。
「篠田くん!」
呼び止める一羽の声も、耳に入らなかった。陸はこの場から離れたい一心で、奥の引き戸を力任せにこじ開け、飛び出していた。
引き戸の先は静まり返っており、薄暗い廊下が続いていた。まるで夜明け前のごとく、ひんやりした空気が肌にふれる。前方から、台所の壁がほの白い光を帯びて見えた。それに吸い寄せられるように、陸はよろよろと歩き始めた。
そこでようやく、陸は自分が通学用のスニーカーを履いたままだと気づいた。たとえ蜘蛛の『領域』であっても、人の家に土足で踏み込むことに、言いようのない居心地の悪さがつきまとう。しかし、今更、足を止めることはできなかった。
歩を進めるにつれ、陸の目に台所の様子が入ってくる。廊下との仕切りがなく、四畳分ほどの空間を、奥まで見渡すことができた。
台所の左手には、ガスコンロや流し台があり、壁にまな板が立てかけられている。その向かい側には、白い冷蔵庫と木製の食器棚がひっそりと佇んでいた。冷蔵庫に目をやると、前面に手書きのメモ用紙や領収書などがマグネットで貼りつけられていた。そして、さまざまな大きさの皿や茶碗などが並ぶ食器棚。さらに奥に視線を移すと、小さな窓があり、その上方に換気扇が備え付けられているのが見えた。五枚の青い羽根が、室内を一望するように静止している。
(岡って、もしかして、あの……)
長く使われていない部屋にも似た、時が堆積した匂いに包まれながら、陸はぼんやりと考えを巡らせていた。
岡湊斗、と一羽が口にした少年の名。岡と聞いて、陸が真っ先に思い浮かべたのは、A棟に住む、あの女性であった。彼女の息子が事故で亡くなったのだと、母や中井から聞いている。
(じゃあ、ここは岡さんの家なのか?)
陸の疑問に応えるように、近くで鈍い物音がした。
音は、台所の隣の部屋から聞こえたようだった。冷蔵庫の横にある磨硝子の引き戸が、二つの部屋の仕切りになっている。磨硝子の先は不透明だが、同じ社宅に住む自分の予想通りなら、六畳の和室があるのではないか。陸は息をひそめて引き戸へ近づくと、微かに震える手で、それを開けた。
がたがたと軋んだ音を響かせ、やや重い引き戸が動く。目の前に現れたのは、やはり六畳の和室だった。絨毯が敷かれた部屋の中央に、円形の座卓が置かれている。そして、左端にはベランダに続く掃き出し窓があるが、ひときわ陸の目をひいたのは、正面に設えられた祭壇――その上に飾られた、遺影であった。
「な……」
陸は、呻きとも驚愕ともつかぬ声をもらした。
白い布をかけられた祭壇には、花やお菓子、位牌などが置かれ、それらに囲まれるように、黒い額縁の中で一人の少年が微笑んでいる。その顔立ちは、鏡に映った、例の少年のものに他ならなかった。
そのまま、陸が立ち尽くしていると、靴の先に何かが当たる感触がした。
「……?」
不審に思って足元を見ると、絨毯の上に、一本の缶ジュースが落ちていた。オレンジを基にしたキャラクターが描かれた、ありふれたジュース。だが、それを目にした瞬間、陸の脳裏に、ある光景が甦った。
(――これ、あの花壇にあったのと同じ……!?)
陸が二度も迷いこんだ、見知らぬ住宅街。そこを貫く十字路脇の花壇に、花と缶ジュースが供えられていた。その缶のデザインは、今まさに陸の足元に転がっているものと同一であったのだ。
「……じゃあ、あそこで死んだのは……」
陸の中で、ようやく、いくつかのことが一つに繋がりつつあった。岡湊斗が、かつてあの場所で事故に遭い、命を落とした。だとすると、自分があそこへ迷いこんだのは、偶然なのだろうか?
絨毯から陸を見上げて笑う、オレンジのキャラクターと、遺影の中から微笑みかけてくる、大きな瞳が印象的な少年。それらを見比べるうちに、陸は思わずめまいがして、体がよろめいた。そして、その拍子に、背後の何かにどんとぶつかってしまう。
「えっ……?」
自分の後ろには、無人の台所しかないはずである。あるいは一羽か、もしかすると、三景が来てくれたのか。
淡い望みを抱いて、陸が振り返ると。
そこには、遺影と同じ制服姿で、額からべっとりと赤黒い血を垂らした少年――岡湊斗が、陸を見つめて立っていた。




