21 陸⑥
蜘蛛と三景のにらみ合いは、依然、続いていた。
「三景、そのままで聞いて。この状態は――少し、変だわ」
三景の後ろで陸に付き添うように立つ一羽が、眉をひそめて呟いた。
「……どういうことだ」
三景は蜘蛛から目を離さぬまま、一羽に答えを促した。
「あの蜘蛛は巣を張っている。徘徊性でないなら、本来、獲物が巣にかかってから積極的に動くはずよ。だけど今の様子を見る限り、過度に興奮して、攻撃性が増しているように思うの」
その言葉に、三景よりも、陸が困惑した表情で一羽を見た。
「『影』は基本的に、自分の形をなす生物の性質を受け継ぐもの。蜘蛛は必要がある時は激しく戦うけど、そうでなければ、進んで攻撃したりはしない――」
一羽がそこまで話した時、陸はなぜか、自分たちが誰かに見られているような気がした。
(何だ……?)
この異界は蜘蛛の『領域』であり、自分たちの他に人がいるとは思えないのだが。陸はその主を探し、視線をさ迷わせた。
すると。
前方にそびえ立つ社宅。先ほど自分と三景が脱出した一階の部屋――その窓から、こちらを見つめる人影があった。
黒っぽいブレザーを着たその姿は、陸がかつて、実在しない鏡の中で出会った、あの少年だった。
「あいつ――!?」
陸は、驚きのあまり思わず叫んでいた。そして、蜘蛛が再び動いたのも、同時だった。
三景はとっさに振り返ると、一羽に何か目配せした。一羽は心得たように頷くと、
「篠田くん!」
すばやく陸の手を取った。その瞬間、陸の視界は白く塗りつぶされていった。
次の瞬間、陸は一羽と共に、社宅の中にいた。
「ここ、さっきの……」
妙に馴染みのある和室は、今しがた、例の少年を見かけた部屋――陸が最初に目覚め、蜘蛛に遭遇した部屋だった。
「ごく短い距離だけど、『転送』させてもらったわ。驚かせてごめんなさい」
一羽はそう言うと、ようやく陸の手を離した。陸は呆気にとられ、突っ立ったまま室内を見回した。
両脇に薄緑のカーテンのついた窓。教科書やスクールバッグが置かれた勉強机。殺風景な室内だが、この灰色の世界で、なぜかここだけは色彩が存在しているのだった。陸が窓の方へ目をやると、畳の上に、三景に割られた窓ガラスが散乱していた。だが、あの少年は見当たらない。
それと同時に、三景の姿もないことに気づいた。
「一羽さん、山那はっ!?」
「三景には、蜘蛛の足止めをしてもらっているわ。篠田くん、さっき、この部屋で何を見たの?」
一羽の一言で、陸は問題に引き戻された。
「全然、知らない男の子だけど……2中だっけ、ケンケンたちと同じ中学の制服着てて、ここの窓から、おれたちを見てた。昼間、学校でも見たんだ――鏡の中で」
陸の説明に、一羽はかすかに眉をひそめた。にわかには信じがたい話を聞いたように、気難しい顔で考えこんでいたが、
「それはおそらく、この部屋に住んでいた人物よ」
「えっ?」
声を跳ね上げる陸を尻目に、一羽は勉強机に近づいた。そして椅子の上のスクールバッグを手に振り返り、それを陸に差し出した。
「……っ!」
陸は驚きで息を呑んだ。バッグ中央のポケット部に、白糸で『S』と刺繍されている。それは、例の少年の制服と同じデザインであった。
「あいつ、この社宅に住んでたのか? でも、おれ、見たことない……」
怪訝そうに首を傾げる陸。自分たちがこの町に来て、もう半月ほどになる。歳の近い者がいるなら、母が話題にしそうなものだが、陸は少年について、全く見聞きしたことがなかった。
しかし、続く一羽の言葉に、陸は耳を疑った。
「彼がここにいたのは、三年ほど前のことよ。今はもう――この世にいないわ」
「……え……?」
この世にいない。その一言に、陸は肌が総毛立つのを感じた。あるはずのない鏡の中に現れた時から、蜘蛛同様、あの少年がまともな存在ではないと理解していたつもりだった。だが、少年が自分と同じ社宅に住んでいた事実と、すでに死んだ者だと告げられたことが、陸に想像以上の戦慄をもたらしていた。
「彼の名前は、岡湊斗。あの蜘蛛の……最初の宿主よ」
感情を抑えた一羽の声が、和室に響く。その直後、窓枠の向こうから、ぬっとこちらを覗きこむ、蜘蛛の赤い眼が見えた。




