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The Blood in Myself   作者: すがるん
第1部 茜の時
19/75

19 陸④

「心の傷だの、痛みだの……そんなの、おれにはわからない……」

 倉庫内には冷たい空気が漂っていた。陸はそれを一息に吸い込みながら、かすれた声でそう答えた。

「確かに、急にそんなことを言われても、困惑するでしょうね」

 三景の掌から生まれるほの暗い灯りの中、理知的だった一羽の表情がわずかに和らいだ。

「よく聞いて、篠田くん。私には『転送』の能力がある。ここは蜘蛛が作った『領域』だけど、私はあなたを、ここから元いた場所へ戻すことができるの」

「転送……?」

 陸はますます混乱し、めまいがしそうだった。

「要するに、いざとなればお前はここから逃げ出せる」

 一羽が加わってから沈黙していた三景が、話に加わった。

「えっ?」

 その話に、陸の表情が輝きを取り戻した。あの蜘蛛から逃れられるのか。灰色の世界で、一筋の光明を見た気がした。

 ところが、

「喜ぶなよ。だから、お前はその場しのぎだっていうんだ」

 三景がつっけんどんに言い捨てた。

「なっ……!」

「よしなさい、三景」

 一羽がたしなめても、三景は構わず言葉を続けた。

「ここで逃げても、またあの蜘蛛はお前を狙ってくる。どっかでけりをつけなきゃ、この繰り返しになるだけだ」

「お前、さっきから何なんだよ!?」

 陸は三景に対する怒りが再燃し、声を荒げていた。

「ぬか喜びしたってしょうがないだろ。俺は事実を言ってるだけだ」

 三景は鋭い視線を陸に向けたかと思うと、にべもなくそう答えた。

「やめなさい、こんな時に。三景、わかっていると思うけど、篠田くんはただでさえ混乱しているのよ」

 一羽の凛とした声が、ぴしゃりとその場を制した。

「……」

 陸はそれを聞いて、何とか落ち着きを取り戻した。一方の三景は刺々しい表情のまま、陸からぷいと顔を背けた。

「けれど、三景の話も一理あるわ。篠田くん、あなたにはいずれ、あの蜘蛛――『影』と対峙する時がくるでしょう。だけど今は、一旦逃れることもできる」

 一羽はそこまで言うと、奥に立つ三景を一瞥しながら話を続けた。

「三景は『攻撃』の能力を持っているの。もしも篠田くんがここで蜘蛛の昇華に臨むというなら、彼がそばで力を貸す。でも、それができないというのであれば、私がここで、あなたを転送するわ」

(……攻撃……)

 ツンとした表情の三景を見上げながら、陸は先日の駐輪場での出来事を思い返した。あの時、三景は光でできた刃のようなものを使い、蜘蛛を追い払ったのだ。

「……あの蜘蛛は、あなたを宿主に選んでから、数日で急速に成長した」

 一羽が眉をひそめて、腑に落ちないと言いたげに呟いた。

「何かがあるはずなのよ、篠田くん。あなたの中に。あなたがこの町へ来る前なのか、後なのかはわからない。でも『影』をひきつけ、あれほど大きくする引き金になった何か。『影』は宿主の分身となるもの。つまり、あなたはどこかで、自分の心を強く揺り動かされる体験や人物と遭遇したんだと思うの」

 一羽の最後の一言が、雫のように陸の胸に落ちた。その瞬間、水面に広がる波紋のごとく、陸の中で、ある思いが驚きと共に生じた。

「………………」

 陸はその場にしゃがみ込んだまま、声もなくコンクリートの床を見つめ続けていた。



「行くのね、篠田くん」

 背後からの一羽の呼びかけに、陸はただ頷いた。

 倉庫の唯一の出入口である引き戸は、陸の目の前にあった。

 閂代わりに立てかけた箒を外せば、引き戸は開く。ここを出るということは、すなわち外で自分を待ち受ける蜘蛛との対峙を意味していた。

「いいんだな、本当に」

 傍らに立つ三景が、陸を見据えて訊ねた。

「おれの考えが正しいのか、自信はない。でも、一つだけ……わかった気がするんだ」

 心を強く動かされたこと。陸は、目線をゆっくりと引き戸から三景に移すと、逆に問いかけた。

「なあ、山那。さっき、人が心の底で何を考えてるかなんて、わからないって言ったよな? お前がおれのことをどう思ってるか、わからないだろうって」

 三景は肯定も否定もしなかった。黒曜石にも似た瞳で、黙って陸の言葉の続きに耳を傾けていた。

「お前の言うとおり、おれにはわからない。お前が何を考えてるのか。おれのことをどう思ってるのかは、大体、見当がつくけど……」

 陸がその先を言おうとした時、それを遮るように三景が口を開いた。

「お前が時々、その場しのぎな行動をするところがあるとは思ってる。でも、だからといってお前をバカにしてる訳じゃない」

 予想外の返答に、陸は三景を改めて見つめ直した。二人の視線が、静かに重なる。まるで初めて自分たちが出会った時のようだと、陸は感じた。あの時も、確かにこんなふうに視線を交わしたのだ。色濃い影を帯びた三景の目。やや吊り上がったそのまなざしは、夜にまぎれた獣のように思えた。

 陸は何かに誘われるように、箒へ手を伸ばし、そばの壁に立てかけた。そしてごくりと唾を飲むと、引き戸をゆっくりと左へ押し開けた。

 


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