18 陸③
「あの蜘蛛が……おれ自身……?」
陸はか細い声で、目を見開いたオウムのように三景の言葉を繰り返した。
「そうだ。だからあれは――」
「ふざけるな!」
三景の返答を遮り、陸は思わず叫んでいた。握られていた右手も強引に振りほどく。自分が人に対して、こんなふうに声を荒げるのは初めてだった。
今この瞬間も、倉庫の外壁を何者かが這い回る音が、陸の不安や怖れを奏でるように響き続けていた。
「あんな化け物が、何でおれの心の投影なんだよ? 冗談じゃない。それじゃあまるで、おれが原因みたいじゃんか」
陸の中で極限まで膨らんでいた恐怖は、激しい怒りに転じていた。どうして自分がここまで追いこまれ、こんな目に遭わなければならないのか。しかも、あの巨大な蜘蛛が自分自身だなど、とても受け入れられる話ではない。爆発した感情はぶつけどころを求めて、目の前の三景へ向けられた。
「……だから、前にも言っただろ。お前がどう思おうが関係ねえって。ぐだぐだ言ってねえで、少しは現実を見ろ」
一方的に怒りをぶつけられた格好の三景は、苛ついたように顔を歪めてそう言い放った。その態度に、陸の怒りはますます激しさを増した。
「おれがどう思うって、お前なんかに何がわかるんだよ! おれの気持ちの、何が!!」
奇怪な銀の蜘蛛は、目にするたびに心の臓を掴まれるような、恐怖を呼び起こす存在だった。陸にとって、それが己の心の投影だということは、自分の本質があのように恐ろしく、目を背けたくなるものなのだと宣告されたに等しかった。
「わからねえよ、人が心の底で何を考えてるかなんて。でもそれは、お前も同じはずだ」
三景は漆黒の瞳で陸を見据えたまま、低く呟いた。
「例えば、俺が今、何を考えてるか。お前のことをどう思ってるか。わからねえだろ、篠田」
三景の手のひらから生まれるほの暗い灯りが、蝋燭の火のごとく揺らめいた。倉庫の壁に映った二人の影法師が、奇妙な踊りをしてみせる。三景の目は底知れぬ淵のように、陸を捉えていた。
「そ……んなの……」
ここにきて、三景はなぜそのようなことを言い出すのか。陸は治まらない腹立たしさと戸惑いを交錯させながら、やがて声を振り絞った。
「お前がわからせてくれなかったんだろ!? いつもお前はきつい言い方ばっかりで、近寄るなって雰囲気丸出しだったくせに」
陸はコンクリートの地面に両手をついて、三景を睨み上げた。
「……でも、おれは初めてお前を見た時のこと、今でも覚えてる。お前はそんなのすっかり忘れてたじゃんか。どうせおれのことも、その場しのぎのいい加減な奴だって、バカにしてるんだろ!?」
その言葉に、三景がわずかに眉根を寄せる。陸には、三景の双眸に宿る闇がより濃くなったように思えた。
その時だった。
「――何してるの、三景」
突然、陸の背後から女の声が響いた。
「……っ!?」
陸が驚いて振り返ると、いつからそこにいたのか、知らない女が立って陸を見下ろしていた。
女は二十代だろうか。黒のビジネススーツ姿のせいか、陸からするとずいぶん年上に見えた。癖のない黒髪を胸まで伸ばし、スカートに同色のハイヒールを身につけた女は、この場にまったく不似合いであった。
「……あ、あんた誰……?」
陸がこの倉庫に駆け込んだ時、中は確かに無人だった。唯一の出入口である引き戸は、蜘蛛の侵入を防ぐため、三景が箒を立てかけている。女がいつ、どこから入ってきたのか、陸には皆目わからなかった。
「私は一羽。詳しく説明する暇はないけど、そこにいる三景と同じよ。あなたを助けにきたの、篠田陸くん」
そう語る女――一羽の瞳もまた、三景と同じ深い夜をたたえていた。
一羽がどうして自分の名を知っているのか、また三景とどんな関係なのか。理解できないことが山積みで、陸の感情は混迷を極めた。
「三景、篠田くんにちゃんと話をした?」
しかし一羽はそれを尻目に、奥の三景に声をかける。
「……」
三景は憮然とした表情で、首を横に振るのみだった。
一羽はそんな三景に眉をひそめたが、すぐさま目線を下げ、再び陸に向き直った。
「なら、私から言うわ。篠田くん、あの蜘蛛――『影』はあなたにとって恐怖の対象かも知れない。だけど、あれは本来、あなたが自分の力で昇華させることができるものなのよ」
「……は……?」
一羽の言葉の意味が、陸には理解しかねた。だが一羽は相手のそういう反応に慣れた様子で、冷静に話を続けた。
「人は生活の中で嫌なことや辛いことがあった時、心の痛みや傷を、無意識の奥にしまい込んでしまうことがあるの。自分を守るためにね。本人はそれを思い出すと苦しいから、そのまま忘れてしまおうとする。そうやって人から忘れられた感情を喰らうのが、いわゆる『影』よ」
いつの間にか、外は静かになっていた。強力な力で、この倉庫を破壊しようとしていた銀の蜘蛛はどうしているのか。まるで今の陸と同じく、無機質な空間の中で息をひそめているようだった。
「『影』の標的になった者を、私たちは宿主と呼んでいるわ。放っておけば、いずれ『影』は無意識を越えて、宿主の魂まで喰い尽くす。それを止めるために、私たちがいるの。『影』が小さいうちなら、私たちが退ける――強制的に消滅させても、宿主に影響は少ない。だけど一定の成長を遂げた『影』を退けると、宿主も相応の影響を受けることになる。だから、宿主自身が昇華させるのが最善の方法なのよ」
まるで教師のように、一羽の口調は理路整然としていた。だがそれは同時に、話を聞く者に対して、内容との隔たりを否応なく感じさせた。
「シ……ショウカって……?」
陸は一羽の話の全てを受け入れたわけではない。しかし、最後の単語が妙に頭に引っ掛かり、気がつけばそう問うていた。
「心の傷は、光を当てれば消える。つまり、あなたが『影』に喰われた心の痛みを認識して感じることで、『影』から自分を取り戻すの」
一羽は毅然とした態度を崩すことなく、陸を見つめてそう言った。




