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The Blood in Myself   作者: すがるん
第1部 茜の時
17/75

17 陸②

 和室の天井いっぱいに張りついた、一匹の巨大な蜘蛛。その頭胸部と腹部は、鉄の鎧を思わせる銀色であった。体からは鋭い剣先のような八本の脚が伸び、同じ数の赤い眼が、逆さから陸の姿を捉えている。腹部はぽっこりと円錐状に膨らんでおり、白い光沢を放っていた。

 社宅の駐輪場で蜘蛛に遭遇したのは、わずか二日前のことだった。あの時、陸の顔ほどの体長であった蜘蛛は、今や陸を越える大きさになっていた。

 あの頭なら、自分を食べることができる。そしてあれだけ膨らんだ腹なら、呑み込んだ自分を収めることもできるだろう。陸は蜘蛛を見上げながら、ぼんやりそんなことを思った。

 天井は実際の社宅の造りより、少し高い気がした。そのため、陸と蜘蛛の間には空間があった。それでも蜘蛛の体躯は圧倒的で、ここでは狭いと言いたげに、脚を曲げて身を縮めているように見えた。

 陸は驚愕のあまり、半ば放心して畳の上に座りこんでいた。自分の前に現れた存在に目を奪われ、巣に捕らわれた者のごとく、蜘蛛の淡い輝きを凝視している。

 一切の音がない世界で、蜘蛛も微動だにせず、ただそこに居た。

 ――しろがね。

 陸の脳裏に、ふとそんな言葉が浮かんだ。決して馴染みのある単語ではない。しかし、目の前の蜘蛛を見つめているうちに、わからなかった問題が解けたように、胸の奥からこぼれた言葉だった。

「……しろ……」

 陸が、無意識にそれを口にしようとした時。

 背後にある窓から、けたたましい音がした。無音の空間を切り裂かんばかりの音とともに、粉々に砕け散ったガラスの破片が、飛沫のように降り注いだ。

「――――っ!?」

 何が起こったのか、振り返ろうとする陸の腕が強引に掴まれる。

「逃げろ、ぐずぐずすんな!」

 この期に及んで刺々しい物言いには、聞き覚えがあった。

「や、山那――」

 窓ガラスを割って室内に侵入したらしい。制服姿の三景は厳しい表情で、ふぬけた陸の体を、有無を言わさず窓の外へ押し出した。


「うわぁっ――」

 転落の恐怖に悲鳴をあげた陸だが、どうやら一階の部屋だったらしい。見覚えのある灰色の空が視界に入ったと思うと、同じく色を失った芝生が目の前にあった。その直後、陸は蛙のような格好で地面に落ちていた。

「……今日、こんなのばっかりだ……」

 土とはいえ、顔や体を強かにぶつけてしまい、陸は再度の痛みにうずくまって呻いた。

「何してる、篠田。さっさと隠れろ!」

 一方、陸を突き落とした三景は軽やかに窓枠を乗りこえ、ひらりと着地するなりそう言った。

「お……お前、何も突き落とさなくたって……」

 陸は涙目で鼻頭のすり傷を押さえ、ブツブツ言いながら上体を起こした。

「早くしろ、死にてえのか!!」

 三景が怒鳴るのとほぼ同時に、窓から尖った銀の脚が、二人を狙う鎌のごとく降り下ろされた。

「――っ!」

 咄嗟に反応できない陸を庇うように、三景が素早く前へ出た。険しい顔つきで、右手にはあの光の剣を生じさせていた。そして次の瞬間、下から上へ、蜘蛛の脚をなぎ払う。

「…………っ!」

 力押しで脚を払うことはできたが、以前と違って、蜘蛛の体に傷をつけることはできなかった。蜘蛛は一瞬怯んで、窓の奥へ戻される形になったものの、畳の上に着地すると、すぐに体勢を立て直した。

「篠田、下がれ」

 室内から目を離さぬまま、三景が矢のように鋭く陸へ呼びかけた。

「……あ……」

 だが恐怖で身がすくんだ陸は、尻餅をついたきり、ろくに動けない。

「その先の倉庫なら、少しは時間が稼げる。逃げ込め!」

 三景は声に苛立ちと焦りをにじませながら、顎で後方の倉庫を示した。

「そ、倉……」

 陸は言葉すらまともに返せず、うろたえた表情で、三景の指示する方向を見た。確かに、自分たちがいる芝生の奥に、小さな倉庫がある。

「早く!」

 三景の剣幕と、今度こそ窓枠から這い出ようと迫る蜘蛛の様子に気づき、陸はもつれる足を引きずって、倉庫を目指し走った。


 陸が倉庫へ入るのは初めてだった。幸い、入口の引き戸は無施錠で、中には社宅内の草刈りに使う道具や脚立、掃除用具などが無造作に置かれていた。埃の匂いや薄暗さを厭う余裕もなく、陸は転がりこむように中へ入る。

 すると間もなく、三景もそこへ追いついた。右手の剣はもう消えていたが、すぐさま引き戸を閉めると、長箒を閂代わりに立てかけた。しかし闇の中で、数秒もしないうちに、雷鳴に似た低い音とともに、何者かが倉庫の外壁を砕き割ろうとする音がした。強烈な力で前後左右から滅多打ちされる衝撃を受け、倉庫内の備品が次々と倒れる音がした。

「……あ……あ……」

 陸は血の気が失せた顔で、ただ耳を塞いでうずくまっていた。胸の鼓動が、外の音と同じくらい大きく打ち続けている。

 外へ出た自分たちに、容赦なく向けられた蜘蛛の尖った脚。単に巨大な脚という以上に、こちらを攻撃しようとする明確な意思を見せつけられ、陸は怯えきっていた。

「おい、篠田」

 暗がりの中、三景が陸に向き直る。

「……おれ、死ぬの?」

 だが陸は三景の声が耳に入らず、体をガタガタ震わせて呟いた。

「落ち着け」

 その様子に、三景が陸のそばに膝をつき、再び声をかけたが、陸の動揺は治まらなかった。

「嫌だ、何でおれが、こんな目に……」

 陸の恐怖心と呼応せんばかりに、外からの攻撃音が激しさを増していく。さらに、何かが外壁を這い回っているのだろうか。がさがさという物音がしては、中を窺うように静かになる。それが四方で繰り返された。

「篠田、聞け」

 三景は左の掌から、白く輝く炎のようなものを発しながら、なおも陸に語りかける。白炎が灯りとなって、二人を照らし出した。

「山那……なあ、おれ、あいつに食われるのか?」

 室内が明るくなっても、陸は混乱したまま、三景に取りすがった。

「……おれ、死にたくない……やっぱりこんな町、来なけりゃ良かったんだ。おれは最初っから――」

「諦めるな!」

 三景が右手で、陸の手首を強く握りしめ、語気を強めた。

「……山那……」

 陸はその力強さと温かな感触で、ようやく我に返った。するとすぐそばで、雑じり気のない三景の黒い瞳が、いつもと変わらず陸を見つめていた。

「……まだ方法はある。だから、俺の話を聞け」

 そう言うと、三景は陸と向き合って腰を下ろした。右手は今も、陸の手を掴んでいる。

「……わかった……」

 陸はか細い声で答えながらも、何かを振りきるように擦りむいた鼻先を拭って、三景を正面から見据えた。

 三景は一度、深く息をつき、

「いいか、篠田」

 わずかだが、陸の手を握る右手に力がこもった。

「あの蜘蛛――影は、俺が退けることもできる」

 相手に言い聞かせるような、三景の口調だった。

「でも、それは最後の手段だ。影は宿主の心を食って育つ。今のあの蜘蛛は、お前の感情を食ってああなった。あれはお前の心の投影、お前自身なんだ」

 その言葉に、陸の涙ぐんだ目が驚きで見開かれた。同時に、そこに映る三景の姿も、大きく揺らいだ。

 


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