14 鏡の中
昼休み。
校舎のそばに建つ食堂から、陸は教室へ戻ろうとしていた。左手には、自販機で買ったばかりの、紙パックの乳酸菌飲料が握られている。
一年生は、午後から健康診断を受けることになっていた。着がえや移動の時間もあり、陸も心なしか早足で、校舎の階段を登っていく。
英語の授業前の一件から、陸は三景と口をきいていなかった。
(……あんな言い方はないだろ。今に始まったことじゃないけどさ)
三景に確認したいことはあれど、相手から投げられた言葉が、小さな棘のように陸の胸に刺さっていた。そのせいで、どうしても話しかける気になれないのだ。
さっきも、昼休みのチャイムが鳴ると、三景はさっさと教室を出ていった。昨日のように、屋上にいるのではという考えが頭をよぎったが、
(……どこで何してたって、知るもんか、あんな奴)
この期に及んで、三景のことを気にする自分に苛立ちながら、陸は階段の踊り場へさしかかっていた。
二階と三階をつなぐ、階段の踊り場。
その壁は一面、鏡張りになっていた。行き交う生徒たちを背に、陸の姿が鏡に映る。
(――あれ……?)
それを目にした陸は、反射的に、ある違和感を抱いた。
「ここ、鏡だっけ……?」
その呟きが鏡に届いた瞬間、陸は鼓膜を貫くような耳鳴りに襲われた。
「うわっ……!」
周囲の物音を全て消し去ってしまう、耳障りな高音。陸は思わず両耳をふさいで、かたく目を閉じた。
程なく、耳鳴りは止んだ。耳を覆う手の隙間から、冷気が侵入するように、静寂が忍びこんでくる。
(何だったんだ……?)
まだ耳の奥がジンジンしていたが、陸はゆっくりと耳から手を離し、瞼を開ける。
すると、世界が再び灰色に沈んでいた。
「……っっ!」
駐輪場で蜘蛛に遭遇した時と同じ。今まで階段や廊下にいた生徒たちの姿は消え、無人の踊り場に、陸は一人で立っていた。天井や床、自分を取り巻く空間の全てが、無機質な灰色の風景に変わり果てている。
(嘘、だろ……)
慄然とする陸。同時に、三景から聞いた『領域』という言葉が脳裏に甦り、肌が粟立つのを感じた。
自分はまた、あの蜘蛛の『領域』に引きずりこまれたのだろうか? だとすれば、またあの蜘蛛が自分を狙ってくるのか。
陸は自らを襲う敵がいないか、恐る恐る周囲を見回した。背後や頭上に視線を巡らせ、目の前の鏡へ顔を向ける。その直後、陸は息を呑んだ。
鏡に映っていたのは、自分ではなかった。
背格好は陸とほぼ変わりない。が、陸の高校とは違う制服を着た、見知らぬ少年が鏡の中に立っていた。陸と向かい合う形で、静かにこちらを見つめている。
「……えっ……!?」
陸はただ驚いて、両手を鏡につき、覗きこむように相手を凝視した。不気味な状況、目の前の少年がまともな存在だとは思えないが、なぜか蜘蛛に出くわした時のような恐怖はなかった。それ以上に、ある種の関心めいた感情の方が、陸の心を占めていた。
鏡の中も、灰色だった。光のない世界に立つ、青白い顔をした少年。彼が羽織る黒っぽいブレザーの左胸の部分に、『S』という刺繍が施されているのが読みとれた。どこか哀しげで、憂いをたたえた表情だが、こちらを見るまなざしには強い意思が宿っている。
(誰――?)
陸が心の内でそんな思いを抱いた時、鏡の中の少年が口を開いた。
『君は、ぼくに近いから』
その声は陸の耳を通してではなく、直接、頭の中で響くように聞こえた。
『君にあげるよ。ぼくの――』
少年がそう言いながら、鏡越しに、両手のひらを陸へ差し出した。
その上にあるものを見ようとした瞬間、先ほどの耳鳴りが、再び陸を襲った。
気がつくと、陸は元の空間に戻っていた。
「…………」
階段の踊り場には、ただ白い壁が広がっているだけだった。壁に手をついて突っ立つ陸をよそに、生徒たちが賑やかな話し声で通り過ぎていく。校舎の中には、何事もなかったかのような日常が再開されていた。
教室へ戻ると、陸は左隣に座る健太に声をかけてみることにした。その前の席には中井がいて、焼きそばパンをかじりながら健太と喋っている。
右隣では、三景もすでに席についていた。陸はできるだけ三景と視線を合わさないよう努めながら、健太たちにあることをたずねた。
「黒いブレザーに、グレーのズボンの制服?」
健太は弁当箱から取った卵焼きを箸で持ったまま、きょとんとした表情で陸を見上げた。
「うん。黒か、黒に近い紺色……だと思う。たまたま見かけてさ、近くにある学校の制服なのかな~と思って……」
陸が、まぼろしの鏡の中で見た少年。
そこまでは話せなかったが、せめて服装などから少しでもわかることがないか、陸は聞いてみたかった。
「確か、胸の辺りに『S』って刺繍があった気がする」
その日見た夢を思い出すように、記憶をたどる陸。
それを耳にした途端、健太と中井が顔を見合わせた。
「陸。それやったら、オレらの学校や」
紙パックのコーヒー牛乳を飲みつつ、中井が答えた。
「へ?」
「正確に言うと、僕らが行ってた中学の制服だと思うよ。胸に『S』って入ってたんだよね? 多分それ、2中のS。市立第二中学校じゃないかな」
「……2中……」
陸は呪文でも唱えるように、その単語を呟いた。
ではあの少年は、中学生だということか。
そんな陸の背中へ、三景が一瞬、闇色の目を向けた。




