11 見えない心
住宅街を囲む空の色は、茜から薄紫へと変わりつつあった。
三景と陸の二人を乗せた自転車が、坂を下り、住宅街を抜けていく。
肌寒さを帯びた風を受けながら、後ろに跨がった陸は、眼前にある三景の背中に声をかけた。
「山那、お前さぁ……」
陸の口からぽろりとこぼれ落ちた呟きを、風が拾う。
「社宅でおれと初めて会った時のこと、本当に覚えてない?」
三景は前を見据えて、
「――言っただろ。ちょっと見ただけの奴なんか、覚えてねえって」
ペダルをこぐ速度を一定に保ち、低く答えた。
「そっかあ……」
陸は盛大なため息をつくと、がっくり頭を垂れた。下げ過ぎて、三景の背中にごつんと陸の額がぶつかる。
「おい、何してんだ」
ブレザーの制服ごしに重さを感じた三景が、陸に頭を上げるよう促した。
だが陸は同じ体勢のまま、
「じゃあ、おれ言っちゃうよ。言っていい?」
心なしか拗ねた口ぶりで、そう問いかけた。
「はぁ?」
勝手に人にもたれるなと言っているのに。まるで話の通じない陸に、三景がイラッと眉間にしわを寄せた。
しかしそれにも構わず、陸は話を続ける。
「おれ、初めてお前を見た時さ、獣みたいだと思ったんだ。何ていうか、ヒトじゃないみたいな」
「――……」
陸のその言葉に、三景の動きが一瞬止まる。陸はそれを、背に触れている額から感じることができた。
「それは単にお前の目つきがきついせいだと思ってたけど……こうなってみれば、おれのカンも、結構当たってたのかな」
瞼を閉じると、陸の脳裏には、この町に引っ越してきた日のこと――三景を初めて見た時のことが、ありありと思い出された。
陸の価値観を根底から揺るがすような衝撃。それまで当たり前に心を占めていたものを、大きく塗り替えてしまう存在感が、三景にはあった。
自分にとってそれほど影響がある出来事だったのに、相手がそれをまるで覚えていないというのは、やはりショックだった。経験や気持ちを、共有できない寂しさがあるのだということを、陸は初めて知った気がした。
「でも……そのせいか、お前が蜘蛛を吹っ飛ばしたのを見ても、それでお前を恐いとは思わないんだ。あの蜘蛛はすっげー恐いのに。お前がどんな奴で、何でそういうことをしてるのか知らないけど、おれを助けてくれたのは確かだし」
そう語りながら、陸は額をくっつけたままの三景の背中から、ほのかな温かさが伝わってくるのを感じていた。
「…………」
三景は何か言いかけるように、後ろを振り返ろうとした。その漆黒の目は、紛れもなく陸を捉えていた。だが次の瞬間には思い直したのか、視線を前に戻し、言葉を呑みこんだ。
一方、瞳を閉じていた陸は、それに気づくことはなかった。
ほどなく、二人は陸の社宅に着いた。
日暮れ時とは言え、まだ完全に夕闇に包まれたわけではない敷地内には、帰る途中とおぼしき親子連れや学生の姿が見える。
三景は滑らかに自転車を走らせ、陸の家があるB棟の駐輪場の前でブレーキをかけた。
陸は先に後荷台から降りると、
「……き、今日は助かった。ありがとな……」
未だサドルに座ったままの三景に、たどたどしく声をかける。考えてみれば、こうして改まって三景に礼を言うのは初めてだった。
勝手に自転車に乗られたり、日頃の無愛想な言動など、戸惑うところは多々あるが、三景には何度か――文字通り、命さえ――助けられている。陸は正面きって感謝を口にすることに気恥ずかしさもあったが、それ以上に、正直な思いを伝えたかった。
「お前に礼を言われる筋合いはねえよ」
しかし三景からは、そっけない台詞が返ってくるのみだった。
「なっ……人がせっかくお礼言ってんのに、もっと素直に受けとれよ!」
自分としては、かなり勇気がいる発言だったのに。沸騰したヤカンのように憤慨する陸に、
「昨日、俺が蜘蛛を仕留めていれば、お前を余分な危険にさらさずに済んだ。俺はその責任を取ってるだけだ。これが俺の役割だから」
三景は厳しい表情で、きっぱりとそう言った。それはどこか言い聞かせるような口調でもあった。
「役割……」
陸は、ぽつりとその一言を反芻した。目には見えないが、自分との間に線を引かれたのを感じていた。
(……おれを助けたのも、ここまで送ってくれたのも……)
自分のことを思ってではなく、一種の義務感だったということか。
そう思い到ると、陸の胸に、行き場のない苦々しい気持ちが広がった。
(何かおれ、バカみたいだ……)
礼を言うのが照れくさいとか、あれこれ迷っていた時間まで無意味に感じられる。もしかすると自分を心配して来てくれたのではないか、という思いが心のどこかにあった。しかし三景の様子から、それも単なる自意識過剰だと突きつけられている気がした。
「俺は帰る。篠田、これ借りるぞ」
俯く陸を尻目に、三景はそう言うと、前カゴに入っていた陸のバッグを投げて寄越した。そしてあろうことか、陸の自転車を鮮やかにUターンさせる。
「は!?」
バッグを受け取った陸が気づいた時には、すでに三景はペダルをこぎ出していた。
「明日返す」
短く言い放っただけで、三景はもはや陸の方など振り向きもせず、スピードを上げて走り去った。
「ドッ……ドロボー!」
陸は唖然とした後、つけ足すように叫んだが、あっという間に三景は社宅を出て、道路の向こうに消えていく。
「何なんだよ、あいつ、信じらんねー!」
一人残された陸はしばらく地団駄を踏んでいたが、やがて虚しくなり、仕方なくB棟の方へ歩き出した。
だがその途中で、
(あれ……?)
ふと、あることに気づいて、足を止めた。
「――おれ、あいつにB棟に住んでるって、言ったっけ……?」
敷地内には四つの棟があるのに、三景は陸に確認することなく、迷わずB棟へやって来たのだ。
陸は幻でも追うように後ろを振り返ったが、そこには無論、誰の姿もない。夕闇に桜の木が揺れて佇むのみだった。




