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The Blood in Myself   作者: すがるん
第1部 茜の時
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10 茜の時

 左頬に西日を受け、自転車に乗った陸が土手を見下ろすと、足下には工事中の空き地が広がり、三台のショベルカーが音を立てている。その向こうには民家が続き、陸の住む社宅もあった。

 自転車を道の端に停めた陸は、通学鞄も持たず斜面を下り、緑の芝生に座った。前方で、夕焼けを背に浴びた灰色のショベルカーが地面を掘っている。操縦席はよく見えないが、腕状に伸びたブームとアームの動きは、キリンが長い首を傾げて草を食むのに似ていた。先端についたバケットが地中へ顔を埋め、掘り起こした土砂を横に吐き出していく。

(……餌になるって、ああいう感じなのかな)

 積み上がる砂山とショベルカーを交互に見つめながら、陸はぼうっとした頭でそんなことを思った。

『お前が見たのは、蜘蛛の形をした影。影から生まれた蜘蛛だ』

 昼休み、学校の屋上で聞いた三景の言葉が、ふたたび陸の耳に響き渡る。

『標的にされた以上、何もしなけりゃ喰われるだけだ』

 三景が他に何を話したか、陸はほとんど覚えていなかった。だが教室に戻ったあと、誰と会話する気にならず、放課後になっても社宅に帰れずにいた。

 三景の話は突飛過ぎて、とてもついていけない。あり得ないと思う一方、自分が見た光景を忘れられないのも事実だった。白昼夢と呼ぶには、あまりに強い恐怖が刻みこまれていた。そして奇怪な蜘蛛に遭遇した際にできた青黒い痣も、未だに右腕にある。

(おれ、どうしよう……)

 今朝は三景と話すことばかりに気をとられ、何も考えずに駐輪場から自転車で登校した。だが三景の話を聞いた途端、陸は社宅に足が向かなくなってしまった。正確に言えば、現場である駐輪場に立ち寄るのが嫌だったのだ。

 もしあの蜘蛛が、また出てきたら。

 想像するだけで、陸の背中に悪寒が走る。かと言って、いつまでもこうしている訳にもいかず、陸は何度目かわからないため息をついた。

「おい」

 その矢先。突然、後ろから呼びかけられる。

「えっ!?」

 ぼんやりしていた陸は、驚いて背後を振り返った。すると目の前に、黒地に赤いロゴのショルダーバッグが飛び込んできた。

「……」

 見覚えのある柄。陸がおずおずと視線を上げると、右肩にバッグを提げた三景が、ぶすっとした表情でこちらを見下ろしていた。


「や、山那っ?」

 陸はしゃっくりでもする時みたいな、裏返った声を上げた。

「また迷子か」

 三景のぶっきらぼうな問いかけに、

「ち――違うわい!」

 陸は肩をいからせて否定したが、

「……あの駐輪場に行くの、怖い……」

 いざ答えるとなると、その勢いは紙風船のようにしぼんでしまう。

 それを聞いても、三景は無愛想を崩すことはなかったが、わずかに息をつくと、陸の傍に腰を下ろした。その行動は、これまで三景から邪険にされてきた陸にとって、大きな驚きだった。

 ショベルカーの奥に滲む夕陽を見つめながら、陸は口を開いた。

「……よくわかんないんだけどさ、どうして、おれなんだろう? お前が言う通り、あの蜘蛛が人を食うなら、どうして他の誰かじゃなくて、おれなんだ?」

 屋上では気が動転して聞けなかったが、それは陸のもっとも知りたいことであった。

 どうしてなのか。

 生まれて十五年間に、陸は何度かこの問いを抱いたことがあった。引っ越しで、仲良しの友だちと離れる時。本当に気が合う訳ではない相手と一緒にいたり、好きでもない勉強をしたりしている時に。

 蜘蛛の存在は現実からかけ離れているのに、抱く疑問は、今まで感じてきた思いの延長線にあるような気がした。

「……俺にも、わからねえ」

 三景は短く答えると、少し間を置いて、言葉を続けた。

「ひとつ言えることは、奴は元々、別の人間に憑いていた」

「えっ」

 思わぬ内容に、陸の両眉が跳ね上がる。

「それが何かのきっかけで、お前を選んだ」

「別の人って誰!?」

 三景の台詞に覆い被さる勢いで訊ねると、陸はその横顔を凝視した。

 そんな人物がいるなら、熨斗をつけて、あの蜘蛛を返してしまいたいとさえ思った。

 さらに、陸が大いに気になるのは、

「ていうかさ、山那はどうしてそこまで知ってるんだ? 影とかいうのもそうだけど、お前は一体……」

 何なのか。

 最後まで言おうとした陸へ、三景が静かに顔を向けた。

 つり目のせいで少しきつい印象だが、端整な表情が、夕暮れの茜色に照らし出されている。その情景に、陸は社宅で初めて出会った時を思い出さずにいられなかった。

 引っ越し初日。あの時は二階と地上だったが、今はこんな近くに三景がいる。

 獣を思わせる獰猛さは影を潜めていたが、三景の黒い瞳は音のない夜を映しているようで、陸の心を捕らえて離さない何かがあった。だが衝撃にも等しいこの感情をどう呼べばいいのか、陸にはわからなかった。

「それは聞くな」

 しかし三景は陸の質問に答えず、見えない幕を下ろすかのように立ち上がる。

「社宅まで送ってやるから、もう帰れ」


 先に土手を登った三景は、陸の自転車の前カゴにバッグを投げ入れると、後輪のスタンドを蹴り上げ、さっさとサドルに跨がった。

「おい!?」

 勝手に自転車に乗られた陸は、ぎょっとして三景に駆け寄った。

「お前がカギ取ってねえからだ」

 三景は堂々とそう言ってのけ、ツンとした顔つきのまま、顎で後荷台を指し示した。乗れということらしい。

「いや、だからそれ、おれの……」

 もごもごと不平をもらす陸に、

「早くしろ。置いてくぞ」

 三景は陸の言うことなど全く耳を貸さず、自転車を漕ぎ出そうとする。

「ま、待てよ!」

 陸は慌てて、進みかけた自分の自転車の後荷台へ飛び乗った。


 舗装された土手の上を、二人乗りの自転車が走り出す。左右に、今しがた眺めていた工事現場と、反対側には川が流れている。それらの景色を見下ろす陸に、前方から三景の文句が飛んできた。

「篠田、お前、タイヤの空気入れてねえだろ。重いぞ」

「うっ……」

 図星を指摘され、陸は腹立たしいが、一瞬返す言葉に詰まった。

「う――うるさいな! 本当は昨日、入れるはずだったんだよ! 嫌なら、自転車返せ!」

 これは事実だった。昨日、何事もなければ、陸はドラッグストアの帰りに空気を入れるつもりでいたのだ。

「俺の方が確実だ。道に迷うこともねえ」

 さらに陸の弱い所を突く三景に、

「しょうがないだろ、引っ越してきたばっかりなんだから!」

 陸が後ろでそう喚いた直後、緩やかなカーブを描きながら、自転車は急な下り坂に入っていった。

「わぶっ」

 勾配のきつさで、陸は思わず三景の背中に顔をぶつけてしまう。荷台の端を握るだけでは心許なく、不本意ながら、咄嗟に陸は三景の腰に掴まっていた。

 三景はブレーキをかけつつ、加速に乗って坂を下りていく。その先は住宅街や陸の社宅につながる道路だが、沈みかけの太陽に向かっているとも言えた。春の温もりと、夜の底冷えが混ざった風が、正面から吹きつけてくる。

 決して仲良くはない三景と、自転車に乗っているという状況が、陸にはとても不思議に思えた。蜘蛛はあれほど恐いのに、同じく得体の知れないはずの三景は恐くない。居心地の悪さや不快もなく、どうしてか一緒にいることが自然であるようにも感じられた。

 そして陸は、自分たちは社宅へ向かっているのに、この道がどこか別の場所に続いているのではないかという気持ちにとらわれた。それがどこなのかはわからない。今の陸にはただ、三景の背中と、茜に染まった空しか見えなかった。




 

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