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The Blood in Myself   作者: すがるん
第1部 茜の時
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1 出会い

 フェンスで囲まれた敷地内のあちこちに立つ桜の木は、その蕾を七分ほど開かせていた。薄桃の花びらは柔らかい陽光に色を際立たせ、それをそっと撫でるように、かすかな風が吹きすぎていった。


「……ボロっちい……」

 四階建ての古い社宅と初対面した時、陸はそう呟いた。

 父の勤務先の社宅は、広い土地にAからDの文字が割りふられた四つの棟が並んでいた。その中のB棟の二階に、今日から自分たち家族は住むのだった。

 社宅は昭和50年代に建てられた物らしく、コンクリート製の白い外壁は、長年の汚れでくすんでいた。陸たち一家が入った室内には三つの部屋があり、畳と壁紙は張り替えられているが、台所や浴室の設備は古いままである。

 家具は午前中に引越業者が設置してくれたが、各部屋のそこかしこに、まだたくさんの段ボール箱が積み上がっていた。一家は、今からこれを自分たちで整理していかなければならなかった。

「おれ、東京の方が絶っっ対良かった」

 陸は廊下から四畳半の和室を眺め、大げさに溜め息をついた。東京に住んでいた時、陸の部屋は六畳の洋室だったのだ。

 この部屋は、お気に入りのシステムベッドと全く雰囲気が合わなかった。勉強机と引き出しが一体化した、ダークブラウンのロフト型ベッド。去年、中学三年の誕生日に両親に頼んで買ってもらった物だ。

「陸、わがまま言わないの。パパの転勤なんだからしょうがないでしょ」

 隣の居間で、母が『すぐ必要な物』とマジック書きされた箱からトイレットペーパーやタオルを取り出しながら、陸を叱った。

 一体、何がしょうがないというのだろう。陸は自分の不満を、一言で片付けられるのは納得いかなかった。

「お兄ちゃんは自分の部屋があるだけマシだよ。海は、空ちゃんと一緒なんだからね」

 小学五年生になる妹の海が、箱から出した自分の洋服を抱えて歩きながら、つんつんした口調で言った。

 一番下の妹、空は四歳になる。空にとっては家の古さがかえって新鮮らしく、一部屋ずつ探検して回っているようだった。

「海と空は女の子なんだから、しょうがないだろ」

「お兄ちゃんもしょうがないって、ママと同じこと言うんだね。もう、空ちゃん、どこー? 手伝ってよ」

 海はそう言い置いてから、斜め向かいの自分の部屋へ、さっさと入っていった。

「………」

 一方、残された陸は、妹に指摘されたことで、やや複雑な気持ちで口をつぐんだ。

「確かにここ、手狭なのよね。前より一部屋少なくなっちゃったし」

 母が肩をすくめて、傍らにいる父を見た。

 父は別の段ボール箱から、明日、会社へ着ていく背広を選んでいた。

「しょうがないよ。ここの社宅は古いから。何年後に、近くに新しいのを建てる話もあるみたいだけど……どうなるかな。あ~、このスーツ、皺になってる。アイロンは?」

「知らないわよ。どこかの箱に書いてない?」

 『しょうがない』という言葉が、家族の間を一人歩きしているようだった。

 陸はその様子が何だか滑稽に感じられて、苦笑しながら、新しい自室へ足を踏み入れた。

 押し入れと窓しかない部屋の真ん中に、システムベッドが窮屈そうに置かれている。

(……『しょうがない』って、他に良い方法がないとか、やむを得ないとかいう意味だっけ)

 陸はシステムベッドを眺めながら、ふとそんなことを考えていた。

 世界は、そういうことが結構多いのかも知れないとも。

「――とりあえず、この部屋を少しでもカッコ良くするか!」

 陸は気分を切り替えるように声を張り上げると、奥の窓を勢いよく開けた。

 

 昼下がりの穏やかな空に、わたあめのような雲がいくつか浮かんでいる。地上に目を向けると、芝生や駐輪場、道路と続いていた。その先に、建物の端にAとつく棟が見える。知らない家々のベランダで、洗濯物がそよ風に吹かれていた。

 その中で、ふと、陸の目をひくものがあった。

 真下の芝生に、一人の少年が立っている。

 濃い黒髪に白いパーカーとジーンズの後ろ姿。誰かと待ち合わせでもしているのか、A棟の方を見つめて動かない。

「?」

 陸は窓から胸を乗り出した。相手は背中を向けているが、体格から中高生かと思われる。

 その時、少年がゆっくりとこちらを振り返った。

 固く結ばれた口と、ややつった目が、まっすぐ陸を見上げてくる。思いの外、整った顔立ちだが、まるで狼や獰猛な獣を連想させる瞳の持ち主だった。

「………!」

 単に目つきが悪いという問題なのだろうか。いわゆる不良という外見でもない。だが陸は捕らえられた獲物のように、咄嗟に息を呑んだ。

 怖い。だがどうしてか目が離せない。深い夜を塗りこめたような少年の瞳には、陸の心を強く惹きつける何かがあった。こんな感覚を抱くのは、生まれて初めてだ。

 お互い言葉もなく、どれ位の間そうしていただろう。陸には一瞬のようにも、数分のようにも感じられた。

「陸、何ボーッとしてるの。早く荷物片付けなさい!」

 母の声が、陸を現実に引き戻した。

 陸が我に返ると、室内には運びこまれた段ボール箱と共に、呆れ顔をした母が腕組みしていた。

「お母さん、今、変な奴が……」

 陸はあたふたと挙動不審な動きをして、再び眼下の少年の方を見た。

「ーーあれ?」

「誰もいないじゃない」

 陸はパチクリと瞬きを繰り返したが、少年の姿は消えていた。

(何だったんだろ……)


 その晩、まだ荷物が散乱する居間で、陸は何年かぶりに動物図鑑を開いてみた。

「にーに、おべんきょー?」

 末の妹、空が横から覗き込んでくる。本が大好きなので興味をひかれたらしい。

「うーん、勉強ってわけじゃないんだけど……」

「あ、おおかみ!」

 空が小さな手で指さしたのは、狼の写真だった。陸は脳裏に焼きついた少年の印象を思い浮かべ、

(……やっぱ、これが一番近いのかな。いや、実物はもっと迫力があったぞ)

 そんなことを真剣に考えていたが、やがて、自分は何をやってるんだろうと冷静になった。

「……アホらし……」

 偶然見かけただけの、どこの誰とも知れない奴を気にするなんて、時間が勿体ない。

 そう思い直すと、陸は動物図鑑をバタンと閉じたのだった。




 


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