【1】
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波の音と潮風が、心地よく耳元を通りすぎる。
夏というにはまだ少し早く、目の前に広がる砂浜にはサーフィンを楽しんでいる若者がまばらにいる以外、あまり人気はない。
でももう一月もすれば、色とりどりのビーチパラソルがこの砂浜いっぱいに咲き乱れる。
・・・はず。
というのも、まだここに引っ越してきて1週間しか経っていないからだ。
美樹は潮風に流れる髪の毛を押さえながら、改めてこの喫茶店『free‐time』を見上げた。
海の真ん前、青い屋根に白い壁、窓には木目調の格子が建て付けてある。
外にはウッドデッキと、白いパラソル。
ここが自分の店だなんて、未だに信じられなかった。
ほんの1ヶ月前までは、街のケーキ屋さんでアルバイトをしていたのに。
「刈谷美樹さん?」
ケーキ屋さんの閉店間際、一人の品の良さそうな老婦人が声をかけてきた。
制服にはフルネームの名札がついていたので、いきなり名前を呼ばれたことには大して驚きもしなかったのだが。
きょとんとして見つめ返すと、老婦人は、にっこりと微笑んで。
「あなた、喫茶店のオーナー、やりたいんじゃなくて?」
確かに、自分の喫茶店を持つというのが、美樹の昔からの夢だった。
初対面のこの人にズバリとその夢を言い当てられたものだから、つい。
「あ、はい」
なんて答えてしまったのが、運が良かったのか。
それから、何が何だか分からないうちに話はトントン拍子で進み、気が付いたらこんな素敵な喫茶店のオーナーになっていた。
もう23にもなれば、こんなうまい話にすぐに飛び付くほど世間知らずではないのだが・・・中川美恵子と名乗ったあの老婦人は、全然嫌な感じがしなかった。
むしろ、話をしていてどこか心地よさを感じ、しかも幸せな気持ちにさせてくれた。
まるで魔法にでもかかったように、つい、彼女に言われるがままに、この喫茶店を経営することになった。
まだオープンしたばかりで、客足は全くイマイチなのだが・・・信じられないくらい家賃が安いので、計算上、問題はない。
1週間経ってもまだ夢の中にいるような気がしてならないが、毎日同じ時間に店を開けて、同じ時間に店を閉める。
もう夕暮れ時で、今日もまた、閉店の時間になった。
太陽はもう水平線に沈み、夕焼けが空に綺麗なグラデーションを描いている。
気が付いたら、サーファー達の姿も見えなくなり、少し風が出てきたようだ。
「雨、降りそうね・・・」
確か天気予報では、今夜は少し荒れると言っていた。
長い髪の毛をなびかせながら、美樹は、真新しい看板を店の中にしまう。
夕焼けの名残りは、段々夜の闇に飲み込まれていって。
「・・・?」
最後のパラソルを仕舞おうとしたとき、美樹は、ふと海の方に違和感を覚えた。
海岸を見渡した時、パラパラと雨が降りだす。
美樹は慌てて店の中に入り、ドアの鍵をかけた。
だが、どこか違和感は消えずに、海側の窓からじっと外を見つめる。
何か嫌な雰囲気。
幽霊でも出て来そうな感じ。
とは言え、生まれてこのかた、そういうモノには一切縁がないのだが。
まさかこの店の大屋は、ここがオバケ屋敷だからこんな安い家賃でここを貸したんじゃないだろうか。
そこまで考えた時、辺りに閃光が走った。
「きゃっ・・・!」
短い悲鳴を上げて、身を縮める。
同時に、店のドアに何かがぶつかったような音がした。
おそるおそる見ると、誰かが店のドアに背中を向けてもたれかかっている。
一瞬怯んだが、思い直して美樹はさっき閉めたばかりの鍵を開けた。
同時に、その人物はよろめいて、その場に崩れるように座り込む。
「だっ・・・大丈夫ですか!?」
いきなりのことに、美樹は慌てて座り込んだまま動かないその人物の肩を支えた。
髪はショートで、痩せ型。
下を向いているので、一瞬、この人が男なのか女なのか分からなかった。
「・・・チッ」
聞いたのは、舌打ち。
なんかヤバい人なのかと、美樹はその肩から手を離して立ち上がった。
すると、その人物はいきなり立ち上がった。
今度こそ、一歩後ずさる。
「・・・あの・・・」
「あ。ごめん」
美樹にやっと気が付いた様子で、その人物はこっちを振り返った。
その声音と顔を見てやっと、女性だと気付く。
「何か・・・あったんですか?」
少し安心したもののまだ完全には警戒を解かず、美樹は彼女に声をかけた。
だがまるで、彼女はこっちの言葉など聞こえてはいないようだ。
「うー、どうすっかな・・・まだあいつら、頑張ってるもんな・・・でもこれじゃ・・・」
とか何とか、小さくブツブツ呟いて。
「あ、でも」
茫然と見つめていると、いきなり彼女がこっちを見た。
美樹は思わず、彼女を見返して。
「・・・なに?」
「ごめん、ちょっと休憩!!」
「あ、ちょっと!」
美樹が制止するのも気にせずに彼女は勝手に店の中に入り、海側のボックス席に座る。
慌てて美樹も追いかけるが、店の明かりの中で見る彼女の顔は、見るからに蒼白だった。
「大丈夫ですか・・・?」
やはり心配になり聞いてみるが、彼女は海の方ばかりを気にしていて、何も答えない。
美樹は軽くため息をついて、店の奥にある住居スペースに入ると、タオルを二枚持ってくる。
1枚は彼女にかけ、もう1枚は自分の首にかける。
たった少し外に出ただけで、雨に濡れてしまったから。
彼女に至っては、最早ずぶ濡れ状態だった。
美樹は変わらずに外を見ている彼女から離れ、カウンターに入ると、コーヒーを入れ始める。