街中迷宮探検記
『不幸とはナイフのようなものである。刃をつかめば手を切るが、把手をつかめば役に立つ』
――ハーマン・メルヴィル
第一章 街中迷宮探検記
1
数年のことだ。
僕は、厄病神になった。
正確に言うなら、厄病神に憑かれた、だが。
いや、この科学文明が発達した社会で『神様』なんているかいないか証明できていない存在をいますよ、と主張するなんて恥ずかしい限りなのだが、事実なのだ。
僕の中には、厄病神がいる。
とはいえ、僕は当の厄病神の姿を見たことがない。気づいたら憑かれていたのだ。何の前触れも、予兆もなく、まるで風邪菌が体内に侵入する時のように、その存在を感知したのは発症してからという次第なのだ。
厄病神の容姿については諸説あって、ジジイやババアの姿をしているとか、鬼の姿をしているだとか色々言われている。俺は巨乳のお姉さんか金髪ロリ娘だったならそのまま添い遂げてやろうと思っているのだが、まぁ、確認できないことはさておいて――厄病神を、みな知っているのだろうか。
厄病神。または疫病神。
名前だけならば、この神さまを知らぬ人はいないのではないだろうか。細かい説明は省くとして、どんな神さまか簡潔に言うならば、一人、または複数人で町にやってきては人々に不幸や病気やらといった災厄を振り撒き闊歩する悪神だ。
存在そのものが迷惑極まりなく、厄病神が現れるつど人々は祭事を行って神の暴挙を鎮めていたという。いくら神さまとしてこの平成の世まで通っているとはいえ、少なくとも悪意なき人間にとって、祈り、願いを訴える相手としてこれほど不適合な神さまはいない。イメージとしては人様の願いを笑いながら足蹴りしてそうな感じ。こいつは神さまとして扱うべきなのか、僕はその段階から議論の余地があるんじゃなかろうかと思ってさえいる。
どこまで行っても悪者扱い。あの『チンピラが雨の中捨て犬に優しくしていたら株爆上げの法則』を持ってしても、その印象は払拭できまい。アニメ出演すれば、多少は可愛らしく脚色されるかもしれないが、拭い去ることはできないに違いない。
そんな僕の印象通り、僕の中の悪神はその力を遺憾なく発揮し、ずいぶんとやんちゃをしてくれた。おかげで、僕の周囲では程度の差こそあれ、不幸な出来事は飽き飽きするほどにありふれていた。不幸の大安売りである。
ある奥様は落とした鍵を連続空き巣犯に拾われ押し入られ、またある少年は片思いの相手への迸るパトスを綴った恋文を送ろうとして同性の親友の下駄箱に間違えて入れた挙句その瞬間を思い人に目撃されていた。硬直し、全身で『絶望』を表現していた彼の立ち姿は多くの生徒に目撃されており、その様はある種の芸術だとあっという間に市内に流布された。その後の彼の学生生活がどうなったのかは、あえて触れまい。
いま挙げたのはほんの一例にすぎないのだが、しかして、僕はそれら不幸の中心にはいなかった。外から彼らが苦しむ様子を眺めていただけだ。
当然なのだ。厄病神は災厄を『周囲』にもたらすのであって、『自分自身』に運んでくるわけじゃない。さしずめ、不幸の傍観者といったところだろう。別に時間跳躍したりしないけど。
己は災厄の渦中にあらず、常に対岸の火事視という立ち位置に準ずる。これこそが『厄病神』であり、僕のモットーでもある。
だからこそ―――災厄の渦中にいるというこの現状を、僕は受け入れられないでいた。
「「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ⁉」」
二人分の叫び声がぶつかり、不協和音となって狭い通路に響き渡る。
僕らはいま、迷宮内にいた。ミノタウロスが閉じ込められていたり、金銀財宝が眠っていたり、数多の冒険家・探検家たちのアガルタであり、墓場であるところのそう、It is labyrinth.
そこで僕らは死にそうになっている。僕らが迷い込んだ迷宮にはミノタウロスはいないものの、別にギミックがあったのだ。それを相手に、僕らは命懸けの逃走劇を繰り広げていた。
何からって? オーブントースターからだ。
と言っても、人に使われていた道具の面影はそこにはない。
僕らを追って疾駆するそいつは、オーブントースターを寄せ集めて生き物っぽい形に固めた、トカゲような見てくれをしており、大きさはゆうに僕の背丈を超えている。全身から火を吐き出して地面を溶かし、
『$%$&’(UO)’)’(%)(((&(&(”&&!”==)(’VTSCDRT‼』
調子が悪い機械の駆動音のような雄叫びを上げながら、足に生えた爪らしき突起物で迷宮の壁を抉り駆ける様はもはや怪物(これよりオーブンモンスターと呼称する)である。
「彩原っ! おまえっ、人を災難に巻き込みやがって! ホンットに責任取れよ! 具体的には俺と結婚しろっ!」
「こんな時に冗談言わないでください! ていうか、なんでわたしが漆羽さんとけ、けけ、結婚……」
全力疾走しながら怒鳴れるってすごいタフネスしてんな。僕は隣で怒りに顔を赤くしている少女に感心してしまった。
「なんでって、元はと言えば、おまえが余計なことをしたせいでこんなことになったわけじゃないか。だからその責任を」
「何自分のことを棚上げしてるんですか! 元を辿ればこうなったのは漆羽さんのせいなんですよっ!」
「おべしっ!」
み、鳩尾に鋭角蹴撃を叩き込まれた……。超痛てぇ。なんで走りながらそんな動きができんだよ。どこの海賊コックですか。
というか、蹴られたのに文句はないが、おまえの言い分には文句大有りだそ。
「ちょっと待て! 棚上げって、おまえが身の丈に合わないことを意地張ってやったのが全ての始まりだろ!」
「それをやれって脅したのはどこの誰ですかっ!」
「そうせざるを得ないようにおまえが仕向けたんだろっぶねぇえええ!」
オーブンモンスターから吐き出された火炎弾が頭のすぐ上を掠めて飛んでいく。まるで砲弾。掠めた髪が焼けたのか、嫌な臭いが鼻に付いた。
「ひっ」と彩原が青ざめた顔をこちらに向ける。
「漆羽さん! 『ここは俺に任せて先に行け』って台詞言うならいまですよっ! 以前から一度言ってみたかったって」
「言ったことねーよ! それ死亡フラグじゃねーか! ていうか会って数時間程度のおまえが俺のなにを知ってんだよ! おまえが残れ!」
「それが日本男児の言う台詞ですか!」
「自己犠牲精神溢れる日本男児は死んだ! たぶん全国の男児は同じことを叫ぶね!」
「全国の男児に謝ってくださいっ!」
僕らは醜くぎゃーぎゃーと言い争い、お互いを後ろに後ろに引っ張り合いながら、迷宮内を逃げ回る。
さて、どうしてこんな事態になっているのか。
まぁ、色々ときっかけはあったのだが、説明するには少々時間を遡らなければならない。
とりあえず、九時間ほど遡ろうか。
2
四月は第四週目の日曜日。この日は全国でお天道様が臨める絶好の花見日和となった。
朝から暖かな陽気が人々を包み込み、ずっと蕾のまま沈黙していた桜たちはお寝坊がすぎたが、一斉に目を覚ましたようだ。
大小連なる山々に囲まれたここ笹真市も同様で、街全体を桜の花びらが風に乗り舞い散っている。まるで人々の思い描く『春』を、そのまま体現したかのような景色だ。
「おお。突然春が来たな」
がらりと、部屋の窓を開けて、僕――漆羽悠里の目は広がる桜吹雪を前に丸くなった。
昨日まで雨を降らしていた灰色の空はなく、青い空がそこにある。この頃続いた寒い毎日が嘘のようだ。
徹夜のせいで瞼が重かったのだが、目の前の光景のせいで眠気は吹き飛んでしまった。眼鏡をかけ、ぐぐっと背伸びをして身体を完全覚醒させる。
「あー、久々のお天気だし、溜まってる洗濯物でも片づけましょうかね」
朝日が照らす木造二階建てのおんぼろアパート。名を〝須賀屋〟という。名前の由来は知らない。
全てが数世代遅れているキッチン、ダイニング、お風呂等は共用。雨漏り上等、窓ガラスはひび入って、階段は数段ほどへし折れて欠損している。建物として機能しているのは風をしのげるという一点だけ。一周回ってすがすがしささえ覚える欠陥住宅だ。
家賃が月五千円と格安なこと以外、こんな犬小屋と大差ないような下宿だが入居者からの不平不満の声は上がってこない。
理由は、入居者が僕だけしかいないことだ。まぁ、誰だってここに住むくらいならもっと金を出して、もっとちゃんとしたアパートに入居する。じゃあ、なんで僕はここに住んでのかって? 家賃が安いからだよ。他に何があるってのさ。
で、その唯一の入居者である僕が管理人に文句を言わないから、声だって上がってこようがないというわけだ。もちろん不満は三日三晩ぶっ通しで語れるほど溜まっているけれど、改善・改修工事しろとは言わない。というか、もう諦めている。
洗濯機に洗い物を放り込んでスイッチオーン。ゴシャグヮシャドゥララララと元気よく稼働し始める。
「ホント仕事熱心だよ。蓋が開いちゃうほど張り切っちゃってさ。床、びしゃびしゃじゃん」
あーあ、また床に染みが……すでに染みだらけで、いまさら感が半端ねぇ……。もう放置でいいんじゃねーの?
とは言っても、そういうわけにもいかんので、零れた水を雑巾で適当に拭き取る。
しっかし、頼んでもいないのに床に水かけ掃除をしてくれる洗濯機に、酒を入れていないのに料理を何でもフランベにしちまうコンロ。ほとほと問題しかない設備だな。慣れたからどうとも思ってないし、むしろこれが全国標準レベルだと思えてきている。慣れって怖いなー。
洗濯機を回している間に朝食を済ませ、洗い終わった洗濯物を干し、僕は二階の自室に戻った。
「さあてと。今日はなにするかな」
どかっ、とベッドに腰を下ろして窓の外を見る。
いつものことながら、僕には予定がない。知り合いはいるが友達はいないし、神様が憑いているからって特に使命とか仕事とかあるわけでもないからな。一日の過ごし方のバリエーションは豊かではないのだ。
ネットと読書で時間を浪費するって選択肢もあるが……せっかくのお天気だしな。
「縁側に出て、僕も花見くらいはしようかな」
縁側からは、歩道に植えられた桜の木が塀越しにちょうど見えるのだ。ベランダには出ないよ。それは自殺すると同義だから。
うん、たまには太陽の下で時間を浪費するのも悪くない。ちょっと楽しみになってきた。
そうと決まれば、たしかこの前通販で買った抹茶と団子がキッチンの戸棚に……。
鼻歌まじりにベッドから立ち上がって、一階に行こうとドアを開ける。
と。
『おっはよ――――――――――――――――――――――――――――っ‼』
「っ……!」
元気いいのあいさつが背中にぶつけられた。
「……おはよ、ハルカちゃん」
耳が痺れたぞ。苦笑しながら振り返ると、そこには誰もいない。あるのは机の上に置かれた僕のノートパソコンだけ。
『あれ? 悠里兄ちゃん、もう起きてたの?』
「いや、ずっと起きてただけだよ」
僕はノートパソコンに話しかける。
パソコンの画面には幼女がひとり映っている。赤いランドセルを背負った小学校一年生くらいの女の子だ。
この子はアパートの管理人が作ったAIで、名前をハルカちゃんと言う。重度の引きこもりでこの須賀屋から一歩も出ず、三次元から解脱して別次元の人間となった自身の創造主に代わり、人とのコミュニケーション、といっても管理人からの連絡を僕に伝えるだけだが、一手に引き受けている。それに、頼んでもいないのに毎朝早くにモーニングコールをしてくれる苦労人なのだ。おかげで隈が消えないぜ。
しかも、驚くなかれ。この母性をくすぐる可愛らしい見かけと言動とは裏腹に、ハルカちゃんは頭がいい。まぁ、AIだからそこいらの幼女とは比較にならないスペックを有しているのは当然で。感情は豊か、僕との会話だってちゃんと成立する。加えて学習意欲が凄まじいから、自主的にいろいろと学んで日々進化していて、
「なんで起きてたの? 眠れなかったの? 昨日も、じかはつでんして熱くなっちゃったから?」
ほら、こんな風にデリカシーの欠片もない台詞を、意味もわからず(たぶん)平然と言えちゃうのだってちょい待ち。
「こらこらこら! お、女の子がそんなはしたないこと言っちゃいけません」
ずっこけそうになった体制をなんとか立て直す。びっくりした。朝一で幼女からセクハラされるとは思わなかった。
『え? なにがはしたないの? 悠里兄ちゃんがはしたないの?』
「なにがって言えるわけな……おい、僕ははしたなくないぞ」
「んん? じゃあなにがはしたないの? ねえ!」
必死だ……。画面から飛び出してきそうなくらい顔を近づけてきている。
子供の純真さを怖いと思った瞬間である。このくらいの子ってスポンジみたく何でも吸収するからな。本人の知らない内にとんでもない道を歩んでたりするもんだし、ちゃんと保護者しろよ管理人! ハルカちゃん、取り返しがつかなくなっちゃうぞ!
しかし、正しくその意味を教えたら、僕が幼女にセクハラですることになってしまう。というわけで、ここは僕の数少ない特技の一つ、笑顔で受け流そう。
ただにこやかに笑っていたら、ハルカちゃんは意地悪クイズか何かと勘違いしたらしい。「絶対当ててやる!」と息巻いて考え込み始めた。
『じかはつでん……。なんだろ……?』
うーん、うーんと首を捻るハルカちゃん。なんだか微笑ましい。
ん? そういえば、ハルカちゃん今日は帰らないな。いつもは僕を起こしたらすぐに帰っちゃうのに。用事でもあるのだろうか。
まぁなんでもいいや。なんかドッと疲れたし、やっぱ今日は一日寝てようか。そんな適当なことを考えていたら、
『あっ! そうだよ。悠里兄ちゃん、クリスマスで思い出したんだけどね』
くるりとその場でターンしながらハルカちゃんが僕に向き直る。
自家発電の件のどっからクリスマスが飛び出てきたのかわからないが、ハルカちゃんの話題の急転換はいつものことなので黙って続きを促す。
するとハルカちゃんは背中からランドセルを下ろして、中身をひっくり返し一枚の紙を取り出した。そしてそれを僕に見えるように近付けてくれる。
『はいこれ。パパから』
「『管理人からのお知らせ』……?」
タイトルを読んで、一気に眉にしわが寄った。あの管理人らしい仕事を滅多にしない管理人から……ねぇ。まぁ、どうせ大した話じゃないんだろうけど。
「あとで読むからメールボックスに放り込んどいてよ」
『ダーメ。いますぐ読んでっ! じゃないとパパ泣いちゃうから』
「泣いちゃう?」
なんだそれ? まさか……これラブレターとかじゃないだろうな。そうなら読まずにゴミ箱にダンクしたいんだけど。あ、ヤバい。自分で言って気持ち悪くなってきた。
渋面のまま固まる。と、くすん、と何やらすすり泣く声が。
『……読んで……くれないの?』
見れば、目に涙を浮かべたハルカちゃんが僕を上目遣いで見つめていた。
「え? なんでハルカちゃんが泣いてんの? それ反則じゃない?」
『うっ……うっ……』
顔を赤くして身体を震わせて佇むその様は、もう三次元幼女となんら変わりない。だから、湧いてくる罪悪感が半端じゃない。
「わかった。読む! 読むよ!」
『ありがと!』
涙一転いい笑顔。思わず溜め息が漏れる。AIが泣き落としって、昨今の二次元と三次元の同一化もここまで進んできましたか。
僕は眼鏡をかけ直し、連絡事項をクリックして画面いっぱいに最大化させる。
しかし泣いちゃうって、なんの話だ。訝しみながらメールに目を通し、
「……は?」
眉に刻まれたしわをさらに深くしてハルカちゃんに目線を戻す。
僕に睨まれているハルカちゃんはにこぱーと笑いながら、
『パパがね、今月の家賃を値上げするってさ』
クリスマスから連想したとは思えない、夢も希望もない本題を切り出した。