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グレーのカーディガン

作者: ぺっくる

初投稿です。

まだまだ初心者なので、アドバイス等いただけると嬉しいです。



「みはるちゃーん!」

後ろから呼び止められて振り返ると、辞書を何冊か抱えた松田さんがぴょこぴょこ走ってきた。

「何?」

彼女が追いついてから、なるべく険のある口調にならないよう気をつけて訊ねる。

「ちょっとお願いがあるんだけどぉ……」

彼女は口を開くなり、持っていた辞書を私に差し出した。

「うち高橋センセに他の作業頼まれちゃってさぁ。悪いけどこれ、三組まで運んでくれる?」

そして、私が答える前に「よろしくね」とそれをテーブルに投げ出し、ぱたぱたと図書室を出て行った。

ドアの外にいた高橋先生に、「ちょっとおトイレに行ってきまーす」と言って。


「うざい」を通り越して、もう呆れるしかない。


「内申に響くし、委員会は入っておこうかなと思ってぇ。でも仕事は面倒くさいよねぇ、図書委員とか。まじだるーい」

松田さんと初めて喋った時、こう放言されたのは今でもはっきり覚えている。

「小柄で可愛い子」という第一印象は瞬時に「私が一番嫌いなタイプの奴」に変わった。

「じゃあさぁ、みはるちゃんはさぁ、何で図書委員に入ったのぉ?」

もう話を打ち切ろうと思っていたところに質問を返されて、

「……本が好きだから」

そう答えたら,

「え、まじぃ!? ホントにぃ?! うそぉ! イマドキこんな子いるんだぁー! ちょーウケるぅー!」

と、大爆笑された。

それからだ。彼女が先生の見ていないところで私に仕事を押し付けるようになったのは。

黒い髪を一つに束ね、校則に違反しない膝丈のスカートをはき、こげ茶色のセーターを着た、ひたすら地味な私にはそういうこともしやすいのだろう。

最初の頃は誰かに相談しようと考えたけど、そんな気持ちはすぐにしぼんだ。

担当の高橋先生はロリコン疑惑のおっさんで、松田さんをかなり気に入っている。彼女が「お腹が痛いのでトイレに行ってきます」なんてサボる時の代名詞のような嘘を毎回ついているのに、にやにや笑って「どうぞどうぞ」と言うだけなのだ。

委員のメンバーも見知らない人たちばかりで、とても相談しようとは思えなかった。

それに、委員のメンバーだって松田さんに似たり寄ったりだ。真面目に仕事をしようなんて人はほとんどいない。

その分、私がやらなければいけない仕事は増える。

委員会が始まってすぐ「何でこんな委員会に入ってしまったんだろう」と悔やみ、ひたすらに我慢し続けて約半年。あと一ヶ月で前期の委員会が終了するというのが、せめてもの救いだ。


ふぅ、とため息をついて、テーブルに投げ出された四冊の辞書の向きを揃えた。もともと運ぼうとしていた学級文庫の上にそれを重ね、小声で「よっ」と掛け声をかけて持ち上げる。

想像していたより重い。一番上の本を顎で押さえ、少しよろよろしながらドアを目指す。

……誰か一人くらい、「半分持とうか?」とか言ってくれてもいいのに。

まあ、それが高望みであることは理解しているけど。

本を据わりのいいように抱えなおす。昨日のドラマの話で盛り上がっている先輩の後ろを通り、プロレスごっこをしている後輩を避け、本棚の間をすり抜け、やっとドアに辿り着いた。

無意識にドアを開けようとして、両手がふさがっていることに気づく。

「あちゃー……」

先にドアを開けておくべきだった、と後悔する。

さすがに足を使うのはためらわれるし、引き戸だから体当たりして開けるわけにもいかない。周りに本を置けるような台はないし、片手と顎でこの重い荷物を支える自信もない。

本を床に置くのは好きじゃないけど、仕方ないか……と、屈もうとしたとき。

するするとドアが開いた。

「……へ?」

まるで魔法のように開いたドアに、何の用意もしていない間抜けな声が漏れる。

中途半端に曲げた背中を伸ばすと、グレーのカーディガンを着た男子が視界の右端に飛び込んできた。

情景反射で上履きの色を確認する。……良かった、同じ二年生だ。

ほっとしたところで、彼がドアを開けてくれたんだと遅ればせながら気づく。

「……あ、ありがとう」

彼のほうが自分より背が高いのをいいことに、目を合わせずにお礼を言った。

「……ん」

あっちも気恥ずかしいのか、無愛想に返事らしきものを返してくる。

私は足早に図書室から出た。



毎週火曜日、昼休みの図書室は、二年生の男子が担当だ。

それを委員会のプリントで確認し、図書室へ向かった。

二年の教室がある三階から四階に上がり、左に曲がってすぐ図書室はある。

室内は閑散としていた。二、三人の生徒が後ろのテーブルで漫画を読んでいて、利用者は私を含めてそれしかいない。

カウンターの手前にある本棚の前で、委員の男子が騒いでいる。この前「図書室では静かにしよう!」というポスターを書いたのはどこのどいつだと突っ込みたい。

本当は目を背けたいくらいだが、今日はその馬鹿男子どもを見回した。

グレーのカーディガンはいない。

みんなと一緒にいないのならば――

ギャーギャー騒いでいる男子から、少し目線をずらす。

いた。

予想通り、彼はカウンターにいた。パイプ椅子に座り、文庫本を読んでいる。

適当な本棚の前で本を探しているように見せかけて、彼を見つめた。

スポーツ刈りの黒い髪、濃い眉、本の行を追っている二重の目、集中しているせいか、少し開いた厚めの唇、日焼けした肌。すらっとした体は、服の上からでも締まった筋肉質なのが分かる。

よくよく見ればかなり「カッコいい」彼は、よく女子の話題に上っていた。確かこの前、亜紀あきが話していたような……?

乱雑な記憶を必死で辿る。えっと、確か、名前は――


荻崎おぎさきー! これ借りるわー」


……そうだ、二組の荻崎君だ。今ので思い出した。

ああもう、喉のところまで出かかっていたのに!

カウンターで漫画を差し出している男子の背中を、ぎろりと眇める。

彼――荻崎君は読んでいた本に栞を挟み、椅子から立ち上がって貸し出しの手続きを始めた。

そういえば、何の本を読んでいるのだろう。

カウンター横に置かれた、新刊本の特設コーナーにさりげなく近づく。ここからなら、カウンターに置かれた彼の本が見えそうだ。念のため彼を窺うが、利用者カードを探しているらしく、こっちには何の注意も払っていない。

その隙に、その本の表紙を盗み見た。


友情 武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ


「……わお」

予想外過ぎる題名と作者に、思わず無声音を発してしまった。

自分の発した声に慌てて新刊本に向き直るが、心臓のばくばくは止まらない。


じゅ、純文学?!


それも、よりによって武者小路実篤の「友情」って、


……思いっきり恋愛小説だし!


心臓がどうにか落ち着いてくると、今度はそのギャップに吹き出しそうになる。

あのルックスで純文学の恋愛小説って……!

あ、いいこと考えた。

笑わないよう口元の筋肉に変な力を入れていた私は、くるりと方向転換し、真っ直ぐ図書室の一番奥まで進んだ。

一番奥の本棚は、「文学」だ。

日本十進分類法にほんじゅっしんぶんるいほうと作者順がごっちゃになった並びの中から、お目当ての本を探し出す。

日本文学、ま、み、む……

あ、あった。

ぎっしり詰まった本棚からそれを取り出し、カウンターに直行する。

そして、

「貸し出し、お願いします」

と、話しかけた。

荻崎君は、さっきと同じように読みかけの「友情」に栞を挟み、私に向き直った。

「あ……」

私の差し出した本を見て、注意していないと聞き取れないくらいの音量で呟く。

「『愛と死』だ……」

予想通りの反応が得られて、私は口元を緩ませた。



ざわついた帰りのホームルームで、担任の先生が声を張り上げる。

「えー、今日は木曜日なので、委員会があります。委員の生徒はそれぞれいつもの集合場所に行くこと。……はい、静かに! それでは、掃除当番の生徒はサボらずにね。はい、今日は終わりです」

日直が力の抜けた声で号令をし、みんなそれぞれ放課後へと散っていった。

私もペンケースを鞄にしまい、部活へと急ぐ亜紀に「じゃあね」と短い挨拶をしながら教室を出る。

混雑した廊下を縫うように進み、掃除をしている生徒を避けながら階段を上った。

図書室は、既に鍵が開いている。

がらがら音を立ててドアを開けると、誰かとばっちり目が合った。

「……!」

「……!」

荻崎君だ。

他には誰もいない。

うわ、うわ、どうしよう。

荻崎君の黒い目に吸い込まれそうになってどぎまぎしていると、彼のほうからふっと目をそらした。読んでいた文庫本に視線を落とす。

小さいけど威力のあるブラックホールから開放された私は、荻崎君の座っているテーブルから少し離れたところに鞄を置いた。

空気が重い。

他にすることが思いつかず、鞄から「愛と死」を取り出した。お気に入りの栞を挟んだページを開き、物語に集中しようとする。

しばらく、お互いがページをめくる音しかしなかった。


「……好きなの?」


だからだろうか。

静けさを破る突然の言葉の意味が、一瞬わからなかった。

思わず本から目をそらし、荻崎君をまじまじと見つめるが、彼は本に目を向けたまま俯いている。

え、これって、どういう……?


「……武者小路実篤、好きなの?」


私が答えないからか、荻崎君はもう一度言った。

え?

……あぁ、武者小路実篤のことか。

「ん……、まあ」

目をそらしながら曖昧な返事を返すと、彼は「ふぅん」と言ってページをめくった。

ただそれだけのやり取りなのに、何故か心臓が勝手に鼓動を速める。

その音が聞こえてしまいそうで、本に顔を落とした。

物語の内容は、さっきよりも頭に入らなかった。



今日の委員会活動は、「お薦めの本」ポスターを書くことだった。

真っ白な画用紙と太いマジックペンが配られ、学年ごとに席を割り振られる。

といっても一つのテーブルに学年全員は座りきれないので、適当に二つのテーブルに分かれた。

私が着いたテーブルには、さっきからお喋りに夢中になっている馬鹿男子二人と、松田さん、そして、荻崎くんがいた。

男子二人の隣に荻崎君が座り、その正面に松田さん、私はその隣に腰を落ち着ける。

「さて……」

画用紙を前に広げ、頬杖をついて小さくため息をついた。

いきなり「お薦めの本」と言われても……ねぇ?

ちらりと周りを窺う。やっぱり、誰も画用紙に向かっていない。友達とこづきあったり、喋ったりしている。

隣にいる松田さんも、ポスターを書く気などないようだ。ただ、隣にいる私が「友達」ではないので、パイプ椅子の上に胡坐をかき、だらしなく伸びたキャメル(らくだ)色のカーディガンの裾をいじっている。短すぎるスカートから下着が見えそうだ。

時々「ちっ……」と舌打ちが聞こえる。さすがにこの状況で私に仕事を押し付けるわけにはいかないからか、かなり機嫌が悪そうだ。

あまり見ていると怒られそうなので、私はその正面に視線を移した。

例外中の例外がいる。

この図書室で唯一、荻崎君は画用紙に向かっていた。右手でシャーペンを回し、左手で頬杖をついて文面を考えているようだ。

グレーのカーディガンの上に、今日はブレザーを羽織っている。使っているシャーペンは、最近流行っている「芯が回って尖り続ける」というあれだ。

その手元をよく見れば、指が細くて長い。第一ボタンを開けたワイシャツからのぞく首筋や鎖骨も、中学生とは思えないほど完成している。はっきり浮き上がっているけど、骨と皮というわけではない、とでも言えばいいのか。そうなっているのは、やはり筋肉で引き締まっているからだろう。

そこまで考えて、はっと我に返った。

一体何を考えていたんだ、私は?!

じわじわと頬が熱くなってきて、慌てて自分の画用紙に向かった。まだ紹介する本も決めていないが、ペンケースからシャーペンを出して考えているふりをする。

そのシャーペンが例の「芯が回って尖り続ける」やつだったので、危うく取り落としそうになった。

何でこんなに焦ってるの?! 落ち着け落ち着け。そうだ、ポスターを書くための本を取ってこよう。

荻崎君から逃げるように席を立ち、ふらふらと文学のコーナーに足を運んだ。やっぱり、紹介しやすいのは物語だ。

うちの図書室は、かなり本が充実している。今流行っているドラマの原作者で、学生に大人気の作家の昔の作品を探し、その中から一番読みやすいものを選んだ。

席に戻り、さっそく画用紙にシャーペンで下書きをする。調子に乗ってくると結構楽しい作業だ。

すると、突然松田さんに話しかけられた。

「ねえ、みはるちゃん」

……もう、せっかくいい調子で書いていたのに。

でも、私は「ん?」と続きをうながした。

「あのさぁ、愁夜クンっているじゃん?」

松田さんが胡坐を崩し、足を組む。

彼女がいきなり出してきた「シュウヤ君」が誰だか分からず、私は首をかしげた。

私の反応に、「知らないのぉ?!」と馬鹿にしたような言い方で彼女が付け加える。

「荻崎君の下の名前ぇ、知らない女子がいるなんて超ありえなーい」

初めて知った彼の名前に、思わずびくっとする。

聞こえていないかと彼をチラ見したが、作業に没頭しているのか画用紙にシャーペンを走らせていた。

かなりの速さで、しかも下書きのはずなのに、彼の字は綺麗だった。まるで大人が書いたような、少し冷たい文字。でも、思わず息を呑むような美しさだ。

「……でさぁー、って、みはるちゃん? 聞いてんのぉ?」

彼の文字に見とれていたら、松田さんの話を全然聞いていなかった。

「あ、ごめんごめん。聞いてるよ」

私が謝ると、彼女はさっきからの強気な態度から一変、いじいじと枝毛を探しながら続けた。

「それでさぁ、愁夜クンってさぁ……どんなタイプの子が好きなんだと思うぅ?」

ぼきっ

小さな破壊音とともに、折れたシャー芯が宙を舞った。

その後も松田さんは喋っていたが、私の耳には何も入ってこなかった。



自分だけの子供部屋を持っていない私にとって、一人で落ち着ける場所はお風呂しかない。

お気に入りの入浴剤を入れた湯船に浸かり、ふうぅ……と大きな溜め息をついた。

あの、松田さんの発言が、頭から離れない。


荻崎君の好きなタイプ……。


何で、松田さんはそんなことを訊いてきたんだろう。


……もしかして


松田さんは、荻崎君のことが好きなのかも……!?


いやいや、考えすぎだ。

そう思いたい。

でも……。

ルックスは申し分なし、他の馬鹿男子とは比べ物にならないくらい大人っぽくて、

そして、優しい。

荻崎君を好きにならない理由なんてない。

さっきよりも大きな溜め息をついて、私はあごまで湯に浸かった。



何となく荻崎君に会うのが嫌で、無意識に二組の前を通らないようにしていた。

「もう、こっちからだと遠回りじゃん! 二組の前通ろうよ」

教室移動のとき亜紀に怒られたが、嫌なものはどうしようもない。

「まあいいけどさ。

……二組の誰かと喧嘩でもしたの?」

亜紀の探るような言い方に、背筋がぎくっとする。

「……別に。そういうわけじゃないけど」

硬い声色でやっとそれだけ言うと、

「そっか。それならいいんだけど」

と、あっさりした答えが返ってきた。

まったく、「それならいいんだけど」なんて思ってないくせに。

そういうところは叶わないな、と、隣をすたすた歩く友を一瞥した。


「あーあ、今日の理科、教室移動だから実験だと思ってたのに。ビデオ観てる時めっちゃ眠かったぁ〜」

大きな口を開けて堂々とあくびをする亜紀を「でかい口だなぁ」とたしなめながら、私もあくびを噛み殺した。

うう、眠い……。

すると、突然「みはるちゃん!」と背中をつつかれた。

「ひゃっ!」

思わず変な悲鳴を上げて振り返ると、松田さんがいた。

あんまり会いたくなかったなと思ってしまう自分が嫌だ。

「どうしたの?」

できるだけひがみが顔に出ないように、柔らかく訊ねる。

「高橋センセの伝言なんだけどぉ、今日の放課後、図書委員は図書室に集まれってぇ。マジめんど〜」

松田さんは言いたいことだけ言って、「そーゆーことだからぁ」と教室に戻って行った。

え……。

図書委員があるって……?!



放課後はすぐにやってきた。

憂鬱で胃のあたりがむかむかする。

一歩一歩階段を踏みしめるように四階に上がり、中に数人の人がいることを確認してからドアを開けた。

テーブルの上に乗っかって騒いでいたのは、一年生が合わせて四、五人。

彼はいなかった。

適当なテーブルに座り、ちらちらとドアを気にしながら爪のささくれをいじる。

がらがらという音がする度にびくっと顔を上げ、入ってきたのが彼じゃないことが嬉しいような悲しいような。

そんなことを何回か繰り返し、

がらがらっ

松田さんが来た。

「あ〜、みはるちゃーん」

いち早く私を見つけてちゃっかり隣に座り、これ見よがしに爪やすりで爪を磨く。

溜め息をついてささくれから意識を背けた私は、

がらがらがら

その音でゆるりとドアに目をやった。

荻崎君だった。


「えー、なぜ今日みんなに集まってもらったかというと、この図書室で使われているパイプ椅子がですね、新しい椅子に変わることになったんですね、えー。他の中学校で、パイプ椅子に挟まれて怪我をしたという事故がですね、たくさんありまして。ですから……」

十分も遅刻して図書室に現れた高橋先生の長い説明が終わり、私たちは図書室にあるパイプ椅子を全部校舎の裏まで運び出し、新しい椅子を図書室に入れることになった。

自分の座っていた椅子と近くの椅子を畳み、二脚ずつ両脇に抱え込む。

そろそろかな……。

「ねえ、みはるちゃん」

……ほら、きた。

予想通り、松田さんが話しかけてきた。

「ちょっとうち、急にお腹痛くなっちゃってぇ。トイレ行ってくるからこれ運んどいてぇ」

彼女は二脚のパイプ椅子をテーブルに立て掛け、逃げるように図書室から出て行った。

こうなることなんて、最初から分かっている。

でも、実際にやられると無性に腹が立つ。

そんなに走れるなら、パイプ椅子くらい運べるだろー!

茶色い髪が揺れる背中にそう叫びたかったけど、喉の奥に引っかかって止まった。

溜め息をつくのも馬鹿らしい。乱暴に松田さんの分を持ち上げた。

うるさい金属音を立てながら、図書室を出る。

がしゃんがしゃん、がしゃんがしゃん

今まで我慢していた彼女への怒りが、その音で目覚めた。

松田さん、いや、松田なんて最低だ、最悪だ。人間の恥だ。馬鹿、アホ、ドジ、間抜けっ! 松田のかあちゃん出ベソ!

何であんな奴が私より可愛いんだっ!

このパイプ椅子を全部、階段の上から踊り場まで投げたらどんなにせいせいするだろう。

がしゃんっ、がしゃんっ

階段を下りるのは、思ったより難しかった。椅子を松葉杖のようにつかないと歩けない。

ついた椅子がぐらっとしてつまずきそうになった。後ろから来た人たちにどんどん抜かされる。

『運べもしないのにそんな沢山持って。馬鹿じゃないの?』

すれ違うたびにそう言われているような気がして、思わず俯いてしまう。

ああ嫌だ。これも全部、松田がいけないんだ。何もかも松田のせいだ。

何もかも……。


とうとう全員に抜かされて、私は踊り場で一人になってしまった。


むらむらと湧いていた怒りが、みじめさでしゅるしゅるとしぼんでいく。


かしゃん……

パイプ椅子を床につき、立ち止まった。

怒りで忘れていた腕の痛みが、じわーっと押し寄せる。地味に痛い。

「はあ……」

腕をさすろうとして、パイプ椅子から手を離してしまった。

がっしゃーんっ!

派手な音を立てて、左腕に抱えていたパイプ椅子が倒れる。

「わっ」

慌ててそれを拾おうとして、

がっしゃーんっ!

右腕の三脚も倒してしまった。

「もぅ……」

床で散らばったパイプ椅子の前で、大きく溜め息をつく。

何だか、自分が情けない。

心が折れそうになる。


このまま家に帰っちゃおうかな。


……というわけにはいかないんだけど。

もう一度小さく溜め息をついた。のろのろと屈み、重なり合ったパイプ椅子に手を伸ばす。


目の前で、それをかっさらわれた。


「……へ?」

顔を上げてまず視界に入ってきたのは、グレーのカーディガン。

ちょっと不機嫌そうで、でも、耳がほんのり赤い、怒っているような表情。

何で……?

私がぽかんとしている間に、彼は六脚の椅子を全て抱え、立ち上がっていた。つられるように私も立つ。

「お、荻崎く……」

「先に図書室戻ってろ」

私の言葉をさえぎるように、彼はぶっきらぼうに言った。

そのまま、すたすたと階段を下りていく。

「……あっ、ちょっと!」

それを呼び止めたのは、もはや反射だ。

彼が階段の真ん中で立ち止まり、振り返る。

その表情に心臓が破裂しそうだけど、ちゃんと目を合わせた。


「ありがとう」


荻崎君の顔が、ぽっと赤くなる。

「……ん」

照れ隠しのようにそう言うと、あっという間に階段を駆け下りてしまった。






今度、グレーのカーディガンを買ってもらおうかな――

そう思ってしまったことは秘密だ。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章の作り方がうまいと思います。 お薦め図書のポスターを書いているくだりで、「少し冷たい文字」という表現がありましたよね。私的にそれがとても気に入っています。 確かに美しい、完璧なものっ…
[一言] とてもよかったです^0^続きが読みたいです! がんばってください^0^!
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