あなたの薄汚れた愛にどれほどの価値が?
今夜の夜会も終盤になる頃には、彼の姿はもうありませんでした。
どうせ、どこかの未亡人とよろしくやっているのでしょう。
わたくしの名は、アデライン・シモンズと申します。
シモンズ伯爵家の娘でございます。
家族は両親と兄。
ごく一般的な貴族の家庭で育った………つもりです。
そして、わたくしを置いて姿を消した婚約者の名は、クリフ・サンチェス。
わたくしより七歳年上の、サンチェス伯爵家の嫡男でございます。
彼と婚約したのは三年前のこと。
とある夜会で父親同士が意気投合し、あれよあれよという間に婚約話がまとまりました。
政略的な思惑はほとんどなく、いわば親同士が酒の勢いで盛り上がった末に決まった婚約でした。
婚約当初、彼はわたくしをとても大切にしてくれましたし、わたくしも彼との婚姻を楽しみにしておりました。
ところが、彼が婚姻に際して『真実の愛の誓い』を行うと言いだしてから、どうにも雲行きが怪しくなってまいりました。
この世界には、本物の愛を誓う『真実の愛の誓い』という儀式がございます。
その誓いを破れば、命をもって償わなければならない誓いです。
そのため、誓いを交わす貴族はほとんどおりません。
平民でさえ、実際に誓いを立てる者は極めて稀です。
万が一、誓いを破ることになれば、命を落とし、家を継ぐ者がいなくなる可能性があります。
わたくしの家族は、それはもう大喜びでした。
そこまで愛されるなんて、あなたは本当に幸せ者だと、口々に言っていたものです。
わたくしもまた、自分の幸せを疑うことなく、満ち足りた日々を送っておりました。
………ですが、それからです。
彼が次々とほかの女性と関係を持つようになったのは。
当初、わたくしはそんな噂信じておりませんでした。
『真実の愛の誓い』を立ててくれるほど、わたくしを愛してくれている彼が、まさかそんなことをするはずがない…そう信じていたのです。
けれど、噂が何度も耳に入ってくるようになり、たまらず彼を問い詰めると、返って来たのは、
「結婚するまでだから」
という、あまりにも身勝手な言い訳だったのです。
もちろん、わたくしは何度もやめて欲しいと訴えました。
けれど、彼は「結婚したら君だけだよ」「若いうちに経験を積んでおくことも大事だから」などと、あれこれ言い訳を並べるばかりで、まるで取り合ってくれません。
泣いてすがっても、困ったような顔をするだけ。
反省する様子も、隠そうとする気もなく、彼は堂々と浮気を繰り返すのでした。
ある日、クリフ様と約束があり、わたくしはサンチェス伯爵邸を訪れました。
どうやら、クリフ様はわたくしとの約束をすっかり忘れていたようです。
使用人たちは何やら慌てふためいておりました。
どうしたのかしら…?
不思議に思いながらも、いつものようにクリフ様のお部屋へ向かっていると………。
クリフ様の部屋から、着衣の乱れた彼が、派手な恰好をした女性の腰を抱きながら出てきたのです。
それを目にしたわたくしは、ようやく彼らの慌てぶりの理由を理解したのでした。
噂では、何度も耳にしておりました。
けれど、実際にこの目で確かめてしまったわたくしは、取り乱し、泣きながら家へと帰りました。
そして、父に懇願したのです。
「お父様、お願いいたします!クリフ様との婚約を解消してください!」
「どうしたんだ…急に」
わたくしは、先ほど目にした光景をありのままに話しました。
すると、父は呆れたようにため息をつきました。
「…なんだ。そんなことか。いいか、結婚すればお前だけを見てくれるんだ。今だけ我慢しなさい」
母もまた、当然のことのように頷きます。
「そうよ。あの方は『真実の愛の誓い』までしてくださるのだから…」
「そんな………」
家族は皆、まるでわたくしがわがままを言っているかのような態度でした。
クリフ様は隠そうともせず浮気を繰り返すため、周囲のわたくしに対する態度も、次第に侮ったものへと変わっていきました。
ーー愛されない女
そんな目で見られ、陰で囁かれるようになっていきます。
彼と関係を持った女性たちも、わたくしを見かけるたびにクスクスと笑います。
貴族にとって面子は大切なものです。
それなのに、わたくしの面子はもうボロボロでした。
………けれど、家族もクリフ様も、そのことに気づいていないようです。
いえ、本当に気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか………わたくしには、もう分かりません。
それから、わたくしは何度、彼に浮気をやめるよう訴えたことでしょう。
そして、そのたびに聞き入れてもらえず、何度家族に婚約の解消を願い出たことでしょう。
けれど、わたくしの乳母であるキリーレ以外に、わたくしの心に寄り添ってくれる者はいませんでした。
………キリーレがいなければ、わたくしはとうに心を壊していたことでしょう。
あれから何も変えることはできないまま、わたくしは十六歳を迎え、ついに明日、結婚式を挙げます。
明日は教会で式を挙げ、そのまま『真実の愛の誓い』を執り行なう予定です。
兄などは、「これでようやく、お前の婚約を解消したいっていう泣き言を聞かずに済むな」などと笑っておりました。
※※※
わたくしは今、純白の美しいドレスを身にまとい、教会で神父様の前に立っております。
結婚式そのものは、神父様の前で書類に署名するだけという、実に簡素なものでした。
皆が期待しているのは、この後に執り行なわれる『真実の愛の誓い』です。
そうそう目にする機会のない儀式だけに、参列者たちの期待がひしひしと伝わってまいります。
皆が口々に「おめでとう」「良かったわね」と声をかけてくれます。
けれど、わたくしには分かりません。
いったい何がおめでたくて、何が良かったというのでしょうか。
隣に立つクリフが、笑顔でわたくしに囁きました。
「愛してるよ、アデライン。これからは君だけだ」
神父様が権杖を掲げ、クリフに問いかけます。
『あなたは、ここにいるアデラインだけを愛し、敬い、慈しみ、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?』
『誓います』
その瞬間、神の祝福なのでしょうか。
天上から美しい光が降り注ぎ、クリフの身体を包み込みました。
参列者席からは、感嘆の声があちらこちらから漏れ聞こえてきます。
誰もがその美しい光景に驚きを隠せない様子です。
一方、クリフ様は実に誇らしげな表情を浮かべておりました。
………さて、次はわたくしの番です。
神父様は、わたくしにも同じように問いかけました。
『あなたは、ここにいるクリフだけを愛し、敬い、慈しみ、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?』
『いいえ。誓いません』
目の前の神父様が、驚きに目を見開きました。
参列者からも、どよめきが広がります。
「………え?」
「………まさか、誓わないって言った?」
「わたくしにもそう聞こえたわ…」
隣から、クリフ様の驚愕した声が響きました。
「アデライン!?」
神父様は困惑を隠せない様子で、恐る恐る尋ねてきます。
「アデライン様は、『真実の愛の誓い』を行わないということで、よろしいのでしょうか………?」
「はい。義務ではありませんよね?」
「そ、それはもちろんですが………」
「何を言っているんだ!?アデライン!私のことを愛しているだろう!?誓うんだ!」
クリフ様が声を荒らげます。
けれど、わたくしはその声を無視し、ただ真っ直ぐ前を見続けておりました。
※※※
『バシン!』
鋭い音とともに、クリフ様の母親であるマデリン様に力いっぱい頬を打たれました。
もちろん痛みはありましたが、覚悟はしておりましたので、倒れ込むことはありませんでした。
「よくも、クリフに!我が家に恥をかかせてくれましたね!」
マデリン様は、怒りに顔を赤くしてわたくしを睨みつけております。
あれから、披露宴は中止となり、わたくしたちは親族だけで控室に集まっております。
「わたくしは、クリフ様が浮気を繰り返している間、ずっと恥をかいておりましたわ」
わたくしがそう告げると、父が声を荒らげました。
「浮気や愛人は男の甲斐性だろう!それを許す度量が淑女には必要だということが分からなかったのか!しかも、彼は、『真実の愛の誓い』までして、結婚後は貞操を守ると誓ってくれたのだぞ!それまでの間のことぐらいでっ!!」
「普通の男性は、隠しますよね?クリフ様は隠そうともしなかった。そのせいで、わたくしが周囲からどれほど侮られることになったか、ご存知ですよね?」
わたくしがそう言うと、父はますます顔を険しくしました。
「それに、お兄様もおっしゃってたではありませんか。若いうちは遊んでおかないとな。って」
わたくしは、にっこりと微笑みました。
「わたくしはまだ十六歳。まだまだ若いですわ。わたくしも遊ばなければなりませんね」
「男と女は違う!」
父が怒鳴りました。
「………そうですか。では、わたくしを修道院にでも入れますか?それとも、放逐なさいますか?わたくしはどちらでも構いませんよ?」
できるはずがないと分かっていながら、そう告げました。
クリフ様はサンチェス伯爵家の一人息子です。
ご両親にとっては、遅くに授かった子ゆえ、目に入れても痛くないほど溺愛されております。
クリフ様は『真実の愛の誓い』を立ててしまったため、今後、わたくし以外と閨を共にすることはできません。
………つまり、わたくしがいなくなれば、彼はもう自分の子を持つことができないのです。
養子を迎えるという手もありますが、サンチェス伯爵家の方々にとっては、到底受け入れがたいことでしょう。
ですが、わたくしは違います。
誓いを立てておりませんから、今後、誰と関係を持とうと命を奪われることはありません。
……外聞はよくないでしょうが、ここまで評判が悪くなってしまえば、今さら気にもなりませんわ。
………まぁ、修道院に入れられようと、放逐されようと、どちらでも構わないというのは本心でもありますけれど。
別に犯罪を犯したわけでもありませんしね。
そもそも、なぜわたくしも誓いを立てると、誰も疑うことなく信じていたのでしょうか。
不思議でなりません。
どうして、浮気ばかり繰り返す、愛してもいない相手のために、命を懸けた誓いを立てなければならないのでしょうか。
わたくしを嘲笑っていた、あの女たち。
あのような者たちに触れた手で、わたくしに触れるなど………なんと、汚らしくて、悍ましい。
わたくしには、そうとしか思えないのです。
クリフ様は、怒鳴るようにおっしゃいました。
「私は君を愛していた!婚姻後は君だけだと言ったし、君と二人で誓いを立て、比翼連理の夫婦になれることを願っていたのに!」
「………わたくしは、婚約者がいながら他の女性と関係を持つ、手垢にまみれた愛など必要ありません」
その言葉を聞いたクリフ様は、茫然とした表情を浮かべ、憔悴しきった様子で呟かれました。
「……君は、私を愛していたじゃないか………?」
「ええ。ですが、その愛情もすっかり擦り切れ、なくなってしまいましたわ」
※※※
あれから、わたくしもクリフ様を見習い、一夜限りの関係を楽しもうと夜会で相手を探してみるのですが、なかなかうまくいきません。
皆様、いったいどうやってお相手を見繕っていらっしゃるのでしょうね?
わたくしのそのような振る舞いに、サンチェス伯爵家の皆さまも、わたくしの家族も歯がゆくて仕方がないようです。
本来なら、とうに離縁を申し付けられてもおかしくないでしょう。
ですが、それもできませんから。
まぁ、わたくしの感情を蔑ろにし続けてきた方々が、今さらわたくしをどう思おうと知ったことではありませんわ。
………わたくしは、もうどこか壊れてしまっているのでしょうね。
クリフ様は、何度も過去のことを謝罪し、やり直したいとわたくしにすがってきます。
ですが、一度失われた愛情が戻るはずもございません。
政略結婚ではなかったとはいえ、今では両家の仲は最悪ですわ。
わたくしなど、両親から「二度と我が家の敷居をまたぐな」と言い渡されております。
………ですが、知ったことではありません。
わたくしにとって、家族と呼べるのはキリーレだけなのですから。
婚姻に際して、彼女が一緒についてきてくれて本当に良かったですわ。
「婚姻したら君だけを愛する(それまでの女遊びは見逃せ)」
………そんな愛に、いったいどれほどの価値があるのでしょうね?




