悪女と呼ばれる公爵令嬢を暴こうとしたら、匿名で子どもたちの食費を七年間払っていました
王都の朝は、新聞売りの声で始まる。
「本日の《王都通信》! 公爵令嬢セレナ・アルヴェール、慈善晩餐会で暴言!」
よく通る声が石畳の通りを抜けるたび、銅貨が売り子の手に落ちていく。
《王都通信》編集部は、朝から紙とインクと人いきれの匂いで満ちていた。
印刷所から運び込まれる新聞の束。
机の上に積み上がる取材メモ。
記者たちの怒鳴り声と笑い声。
その真ん中で、今日も一人の女の名前が大きく躍っている。
《公爵令嬢セレナ、貧民を前に「わたくしには関係ない」》
「見ましたか、先輩」
若い記者エリオットが得意げに号外を掲げた。
レオン・ハルトは記事を受け取り、見出しを眺める。
「取材に行ったのは俺ですよ」
エリオットは待ってましたとばかりに話し始めた。
「慈善晩餐会でね。首にとんでもないサファイアをぶら下げてたんで、聞いたんです。『その首飾りを売れば、何人の貧しい子どもを救えると思いますか』って」
嫌な質問だな。
レオンはそう思ったが、口にはしなかった。
「そうしたら、あの令嬢、なんて言ったと思います?」
「さあ」
「『わたくしの首飾り一つで王国の貧困がなくなるのでしたら、今すぐ差し上げますわ』ですよ」
「……それで?」
「『なくならないのでしょう? なら、わたくしが何を身につけるかとは別の問題です』」
レオンはもう一度見出しを見る。
《わたくしには関係ない》
「そんなことは言ってないな」
「意味は似たようなものでしょう」
エリオットは悪びれない。
「読者が読みたいのは発言録じゃありませんよ。どんな女なのか、一目で分かる見出しです」
「本人から抗議は?」
「それが逆なんです」
エリオットが笑った。
「翌日、向こうから俺を見つけて『売れました?』ですって」
「……それだけ?」
「それだけですよ。普通、怒るでしょう? あれ、どっかおかしいんですよ。悪女っていうより、悪評まで楽しんでる」
レオンは記事を机へ戻した。
三十二歳。
平民出身。
若い頃は、政治腐敗や辺境の貧困を暴く記者になりたいと思っていた。
実際、五年前には辺境領で行われていた兵糧の横流しを半年かけて追い、役人と商人の癒着を暴いたこともある。
だが、そういう記事は金も時間もかかる。
そして、あまり売れない。
それよりも、
王子の婚約。
伯爵夫人の不倫。
公爵令嬢の失言。
そういう記事の方が何倍も読まれる。
気づけば、レオンの羽ペンもそちらを向くようになっていた。
「レオン。編集長がお呼びだ」
声をかけられ、立ち上がる。
編集長室では、ローデリヒが椅子にふんぞり返っていた。
太い指で、今日の新聞を叩く。
「よく売れてるぞ」
「そうですか」
「普段の一・五倍だ」
ローデリヒは満足そうに笑った。
「悪女の記事は売れる。だが、同じ失言ばかりではそのうち飽きられる」
レオンは嫌な予感がした。
「アルヴェール家の金を洗え」
「金?」
「あれだけ派手に使ってる女だ。何かあるだろう。脱税、裏取引、商人への圧力。何でもいい」
「なかったら?」
「探せ」
「無茶を言いますね」
「新聞屋なんて、昔から無茶を記事に変える商売だ」
ローデリヒが笑った。
「いい記事を頼む」
レオンは扉に手をかけてから振り返った。
「売れる記事を、でしょう」
編集長は否定しなかった。
◇
インタビューは、王都でも指折りの茶館で行われた。
セレナ・アルヴェールは、約束の時刻ぴったりに現れた。
鮮やかな青のドレス。
首には大粒のサファイア。
耳飾りも指輪も、控えめという言葉とは縁がない。
彼女が店へ入った瞬間、客たちの視線が一斉に向いた。
本人は気にも留めない。
いや。
レオンには、むしろ気づいた上で楽しんでいるように見えた。
「お待たせしました?」
「いえ。ちょうどです」
セレナは椅子へ腰を下ろす。
「では、始めましょうか」
レオンは記録魔道具を起動した。
淡い光が灯る。
「そこまで高価なものを身につければ、反感を買うとは思いませんか」
「思いますわ」
即答だった。
「それでも着る?」
「もちろん」
「なぜ」
セレナは首元のサファイアに指を触れた。
「見られるために買ったものを、誰にも見られず着る意味がありますの?」
「自慢したいと?」
「ええ」
レオンは一瞬、次の質問を忘れた。
ここまで堂々と認める人間も珍しい。
「新聞で悪女と書かれて傷つきませんか」
「あなた方が紙とインクを使って、わたくしの名前を王都中へ宣伝してくださっているのでしょう?」
「嫌われても?」
「嫌われただけでは財産は減りませんもの」
感じが悪い。
想像していた以上に。
「慈善晩餐会での発言も?」
「どの記事です?」
「『わたくしには関係ない』と」
「ああ」
セレナは紅茶を口にした。
「それ、わたくし言ってませんわ」
「抗議しないんですか」
「面倒ですもの」
「事実と違うのに?」
「読者は訂正文より悪女の記事がお好きなのでしょう?」
レオンは眉を寄せた。
「随分と新聞を信用していない」
「逆ですわ」
セレナが微笑む。
「何を書けば売れるのかについては、とても信用しております」
腹立たしい。
しかも大抵、言い返しにくい。
その時だった。
若い給仕が茶器を運んできた。
緊張していたのだろう。
カップを置こうとして指を滑らせた。
「あっ」
紅茶が跳ねた。
何滴かが、セレナの青いドレスの裾に落ちる。
給仕の顔から血の気が引いた。
「あ、あの、申し訳ございません!」
店主が奥から飛んでくる。
「何をしている!」
「騒がないでくださる?」
セレナの声が落ちた。
店主が止まる。
セレナは染みを一度見ただけだった。
「洗えば済みます」
「ですが、お召し物が」
「聞こえませんでした?」
店主は口を閉じた。
給仕が何度も頭を下げる。
「申し訳ありません、本当に、申し訳」
「三回目からは謝罪ではなく騒音ですわ」
セレナが眉をひそめた。
「さっさと下がって頂戴」
「……はい」
給仕は逃げるように去った。
レオンはその背中を見送った。
普通なら、弁償を求めてもおかしくない。
少なくとも、自分がこれまで取材してきた貴族の中には、使用人の一年分の賃金より高い衣装を汚されたと怒鳴り散らす者もいた。
「怒らないんですね」
レオンが言うと、セレナは不思議そうに彼を見た。
「怒ってドレスが元に戻りますの?」
「……いいえ」
「では必要ありませんわ」
それだけだった。
レオンは、その引っかかりを頭の隅へ追いやった。
気まぐれだ。
そういうこともある。
何より、彼女の嫌味な態度が消えたわけではない。
◇
調べれば調べるほど、レオンは苛立った。
セレナの浪費はいくらでも出てくる。
春には南方産の絹。
夏には新しい馬車。
秋には画家を屋敷へ呼びつけ、自画像を描かせている。
冬には宝石商から大粒のルビーを購入。
酒。
絵画。
香水。
馬。
ドレス。
金貨が音を立てて消えていくような生活だった。
しかし、不正がない。
税は納めている。
商人への未払いもない。
脅迫もない。
使用人からも決定的な悪評は出なかった。
「口は悪いですが、給金は遅れません」
「急に解雇された人間は?」
「聞いたことがありませんね」
「商人への値切りは?」
「むしろ値切らないことで有名ですよ」
欲しい物を、正規の値段で買う。
ただそれだけ。
新聞記事にはならない。
数日後。
レオンはアルヴェール家に以前出入りしていた帳簿係の老人を訪ねた。
すでに隠居して五年になる男だった。
最初は何も話したがらなかった。
だが、酒を一杯、二杯と重ねるうち、老人の口が少しだけ軽くなった。
「令嬢ご本人の金遣いですか」
「ええ」
「派手ですよ。昔から」
「妙な支払いは?」
「妙?」
「商人ではない相手へ、定期的に金を送っていたとか」
老人は少し考えた。
「そういや」
レオンの手が止まる。
「毎月、為替証書を一枚作っていたな」
「どこ宛てです」
「知らん」
「覚えていない?」
「俺が書いたのは金額までだ。行き先は封蝋された指示書で為替商へ渡していた」
「誰の指示で?」
老人はレオンを見た。
「お嬢様だ」
「公爵ではなく?」
「お嬢様個人の取り分からだった」
「いつ頃から?」
老人は目を細めた。
「俺が辞める少し前だから……七年くらいになるか」
レオンの胸に、小さな違和感が生まれた。
「為替商は?」
「グランツ商会」
翌日、レオンはグランツ商会を訪ねた。
当然ながら、顧客の送金先など教えてはもらえない。
「お客様の取引内容はお話しできません」
店主はそれを繰り返すだけだった。
だが、王都から地方への一定額以上の送金は、税務上、送り先の都市だけは王立為替組合の公開台帳に記録される。
レオンは三日分の閲覧料を払い、古い台帳をめくった。
アルヴェール家。
アルヴェール家。
アルヴェール家。
似た記録の中に、毎月ほぼ同じ日に繰り返される送金があった。
送金元。
<<セレナ・アルヴェール個人勘定。>>
送金先。
<<ローデン。>>
受取人の名は公開されていない。
ただ、七年前から途切れていない。
レオンはローデンの地方紙を取り寄せた。
そこに答えの欠片があった。
《暁の子ら基金、今年も冬季支援を実施》
食事支援。
学用品。
冬服。
薪。
治療費。
学校の昼食代。
記事の末尾には、小さな一文。
〈活動の一部は、王都在住の匿名寄付者による長年の継続支援によって賄われている〉
王都。
七年。
ローデン。
偶然と片付けるには、揃いすぎていた。
翌朝、レオンはローデン行きの馬車に乗った。
◇
《暁の子ら基金》は、レオンが想像していたよりずっと小さかった。
石造りの立派な孤児院でもなければ、教会の巨大な救済施設でもない。
古い建物を改装しただけの場所だ。
玄関の扉は少し歪み、窓枠には何度も塗り直した跡がある。
代表のマルタは、五十代半ばほどの女性だった。
名刺代わりの記者証を見せると、明らかに警戒された。
レオンは単刀直入に切り込んだ。
「セレナ・アルヴェール公爵令嬢から、寄付を受けていますね」
マルタの表情は変わらなかった。
「寄付者についてはお答えできません」
「七年間です」
「お答えできません」
「王都から毎月送金があることまでは確認しています」
「そうですか」
「否定は?」
「肯定も否定もいたしません」
鉄壁だった。
レオンは諦めて、基金そのものについて尋ねた。
こちらには答えてくれた。
孤児だけではない。
片親家庭。
親が病気になった家庭。
仕事を失い、一時的に生活が苦しくなった家。
必要がある子どもなら支援する。
「食事だけではないんですね」
「ええ」
マルタは棚に並ぶ帳簿を指した。
「冬服、薪、学用品、治療費。学校へ通う子なら昼食代を補うこともあります」
「寄付金は用途ごとに分かれている?」
「いいえ」
「では、誰かの金がそのまま特定の子に?」
「なりません」
マルタは首を振る。
「全部いったん基金へ入れます。その時必要なものに使うんです」
話しているうちに夕方になった。
子どもたちが次々とやってきた。
「見学していきます?」
マルタが言う。
「取材しても?」
「子どもの名前を書かないなら」
レオンは少し考えた。
それから手帳を閉じた。
「今日は見ているだけにします」
食堂には長机が並んでいた。
椅子の形はばらばら。
欠けた皿もある。
壁には子どもの絵。
騎士。
犬。
竜。
何を描いたのか本人にしか分からなさそうな緑色の塊。
厨房から、煮込み料理の匂いが流れてくる。
一人の少年が鍋へ近づいた。
背伸びをする。
「今日、肉ある?」
「あるよ」
マルタが答えた。
少年の目が輝く。
「何個?」
「数えない」
「いっぱい?」
「食べてからのお楽しみ」
「やった!」
少年が駆けていく。
別の少女は皿に入った人参を隣へ移そうとして叱られた。
パンを煮込みの中へ落とし、慌てて指で拾おうとする子。
「熱いから触るな!」
「でもパン!」
「新しいのあげるから!」
その横では、隣の皿から肉を奪おうとした少年が手を叩かれている。
「それ俺の!」
「一個くらいいいだろ!」
「自分の食べろ!」
騒がしい。
笑っている。
喧嘩している。
悲しい顔を探そうと思えば、どこにも見つからなかった。
その時。
レオンの頭に言葉が浮かんだ。
(これは記事になる。)
王都一の悪女。
七年間。
匿名。
貧しい子ども。
温かい夕食。
完璧だった。
見出しまで浮かぶ。
《王都一の悪女、密かに子どもたちを救っていた》
読者は驚く。
売れる。
間違いなく。
そこでようやく、レオンは自分が何を考えているのかに気づいた。
目の前の子どもたちを見ていたのではない。
記事の材料として見ていた。
レオンは閉じたままだった手帳を、鞄の奥へ押し込んだ。
「きれいな話にしないでくださいね」
いつの間にか、マルタが隣に立っていた。
「……どういう意味です」
「記者さんって、こういう場所に来ると、かわいそうな子を探すでしょう?」
レオンは返事をしなかった。
マルタは食堂を顎で示す。
「でも、あの子たち、今は肉の数で喧嘩してるだけでしょう」
少年がまた叫ぶ。
「こいつ二個取った!」
「取ってない!」
「取った!」
マルタがため息をついた。
「ほらね」
レオンは少しだけ笑った。
帰り際。
最後に一つだけ尋ねた。
「匿名で寄付する人は、自分の金が誰に使われたか知ることができますか」
「いいえ」
「活動報告は?」
「送りますよ。何食提供したとか、学用品を何人に渡したとか、昼食代を何件補助したとか」
「名前は?」
「出しません」
「寄付者が知りたいと言ったら?」
「断ります」
マルタは当然のように答えた。
「子どもが、誰かに金をもらった証明として生きる必要はありませんから」
「長く寄付している人も?」
「同じです」
「その人から、知りたいと言われたことは?」
マルタが少しだけ笑った。
「幸い、一度もありません」
レオンはそれ以上聞かなかった。
◇
王都へ戻った翌日。
レオンはセレナに再取材を申し込んだ。
前と同じ茶館。
ただし今回は、記録魔道具を出さなかった。
セレナが気づく。
「録らないんですの?」
「確認だけです」
「何を?」
レオンは彼女を見た。
「《暁の子ら基金》について」
セレナの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
だが、あれほど何を聞いても崩れなかった表情から、初めて余裕が消えた。
「……誰から聞きましたの?」
「誰も教えてくれませんでした」
セレナが黙る。
「為替記録を追いました。ローデンへの送金。七年続いていますね」
沈黙。
「あなたですね」
セレナはしばらくレオンを見ていた。
やがて、わずかに頭を下げた。
「記事にはしないでください」
初めて聞く声だった。
皮肉もない。
強がりもない。
レオンは問い返す。
「なぜです」
「嫌だからです」
「公表すれば評判は変わります」
「でしょうね」
「悪女の記事も減る」
「でしょうね」
「社交界の評価も上がる。商人も、あなたと仕事をしたがるでしょう」
「でしょうね」
「なら、あなたにとって悪い話ではない」
「それ、全部わたくしの利益ですわね」
「そうです」
「だから嫌なんです」
レオンには分からなかった。
「あなた、褒められるのが嫌いなんですか」
セレナは目を瞬いた。
そして、
「いいえ?」
あまりにもあっさり否定した。
「むしろ好きですわ」
「だったらなおさら分からない」
セレナは小さく息を吐いた。
「だから分けておりますの」
「分ける?」
セレナはレオンを見る。
「褒められたいことと、褒められたくないことは、別ですもの」
レオンは黙った。
「新しいドレスなら見てほしいですわ」
セレナは指を折る。
「宝石なら羨ましがられたい。舞踏会なら一番目立ちたい。新聞の一面だって嫌いではありません」
「随分な性格ですね」
「今さら?」
セレナが少し笑った。
そして、声を落とす。
「でも」
その表情だけが、少し変わった。
「子どもが夕食を食べられたことまで、わたくしの評判にはしたくありません」
レオンの頭に、鍋を覗き込む少年の姿が浮かんだ。
「誰を助けたのか知っていますか」
「いいえ」
「七年間、一人も?」
「一人も」
「知りたくない?」
セレナは少し考えた。
「気にはなりますわ」
「では」
「でも、知らない方がよろしいでしょう?」
「なぜです」
「名前を知った瞬間、その子は“公爵令嬢セレナに助けてもらった子”になるでしょう」
レオンは何も言わない。
「その子が大人になった時も、誰かに言われるかもしれない」
セレナは静かに続ける。
「あなたは昔、公爵令嬢に食べさせてもらった子でしょう、と」
「……」
「わたくしの名前を背負わせるために払っているわけではありません」
レオンは、その言葉を頭の中で反芻した。
「どうして子どもなんです?」
聞いた瞬間。
セレナの表情が止まった。
レオンは身構えた。
何かある。
幼少期。
失った友人。
家族。
過去の傷。
記者として、そういう話を何度も聞いてきた。
人間の行動には、必ず説明できる理由がある。
記事には、その理由が必要だった。
しばらくして、セレナが答えた。
「払えるからですわ」
「……それだけ?」
「ええ」
「他には?」
「それでは足りませんの?」
レオンは口を閉じた。
セレナは紅茶を飲んだ。
それ以上、何も話さなかった。
レオンも、もう聞かなかった。
◇
夜。
編集部には、ほとんど人が残っていなかった。
レオンは机に向かい、羽ペンを走らせた。
見出しはすぐに決まった。
《王都一の悪女、七年間続けていた匿名寄付》
強い。
悪女。
秘密。
七年。
子ども。
匿名。
新聞が売れる材料が全部入っている。
本文も滑るように書けた。
派手な浪費。
傲慢な発言。
悪評。
そこから一転。
地方の子どもたちを七年間支え続けてきた秘密。
読者は驚く。
そして感動する。
最後にこう締めればいい。
「悪女と呼ばれた令嬢の、本当の素顔を王都は知らなかった」
書き終えた。
完璧だった。
嘘は一つも書いていない。
レオンは最初から読み返した。
一度。
二度。
三度。
読むほどに、違和感が増えた。
そこには、
悪女だったセレナが、
最後には聖女になっていた。
そしてその背景には、
貧しくて、
かわいそうで、
彼女に救われた子どもたちが並んでいる。
レオンの耳に声が蘇る。
「今日、肉ある?」
悲しい声ではなかった。
腹を空かせて泣いていたわけでもない。
ただ夕食に肉が入っていることを喜んでいた。
あの少年に、自分は勝手に役を与えようとしている。
「かわいそうな子ども」という役を。
セレナにも。
「本当は心優しい悪女」という役を。
事実しか書いていない。
それなのに。
レオンは原稿を見つめた。
<<事実を並べても、人間について嘘を書くことはできる。>>
そのことに気づいた。
セレナは、ドレスを見せる。
宝石を見せる。
自慢もする。
悪評すら利用する。
自分自身のほとんどを、人に見せて生きている女だった。
ただ一つ。
誰にも見せないと決めたものがある。
そこへ新聞記者が踏み込み、
「実はいい人だった」という商品へ作り替える。
セレナが売らなかったものを、
自分が勝手に売る。
レオンは原稿を手に取った。
一枚目を破る。
二枚目。
三枚目。
破いた紙を燭台の火へ近づける。
端が黒く縮れた。
火が走る。
文字が消えていく。
最後の一枚が灰になるまで、レオンはそこを動かなかった。
◇
翌朝。
「どういうことだ」
ローデリヒが机を叩いた。
「何がです」
「とぼけるな」
編集長の前には、レオンの短い取材報告だけが置かれている。
〈不正行為は確認できず。記事化すべき公益性のある新事実なし〉
「寄付の話はどうした」
「掴みました」
「確証も?」
「本人から取りました」
ローデリヒの目が見開く。
「なら書け!」
「書きません」
「本人に止められたからか?」
「違います」
「では何だ」
「公益性がありません」
「公益性?」
ローデリヒが鼻で笑う。
「王都一の悪女が七年間も匿名で寄付してたんだぞ。十分ニュースだ」
「面白い話ではあります」
「同じだ」
「違います」
「何が違う」
ローデリヒが身を乗り出す。
「子どもの名前は出さなければいい。基金の場所だって伏せられる。『セレナ・アルヴェールが七年間匿名寄付を続けていた』。それだけで売れる」
「売れるでしょうね」
「だったら」
「それでも俺たちは、本人が評判に使わないと決めた行為を、勝手に評判へ換金することになります」
「本人にも得だろ」
「そうです」
「なら問題ない」
「そこが問題なんです」
ローデリヒの眉が動いた。
レオンは続ける。
「悪女だった。だけど実は聖女だった。そう書けば売れる」
「事実だろ」
「違います」
「何がだ」
「寄付したのは事実です。でも、聖女になったわけじゃない」
ローデリヒは黙る。
「昨日だって、きっと高いドレスを買ってます。明日も誰かに嫌味を言うでしょう。あの人は、寄付をしているから善人になったわけじゃない」
「だから何だ」
「俺たちが記事にした瞬間、全部が分かりやすい話に変わるんです」
レオンは言った。
「事実だけ書いて、人間について嘘を書くことはできます」
編集長室が静かになった。
「……ずいぶん詩人になったな」
「記者のつもりです」
「だったら事実を書け」
「書けることと、書くべきことは同じじゃないでしょう」
ローデリヒが椅子へもたれた。
長い沈黙。
やがて、
「五年前」
と呟く。
「辺境領の兵糧横流しを暴いた時のお前は、こんなに悩まなかった」
「はい」
「あれも、記事にされたくない人間ばかりだったぞ」
「はい」
「何が違う」
レオンは少し考えた。
「書かなければ、被害が続いたからです」
ローデリヒは黙る。
「あの記事は誰かを守るために必要だった」
「今回は違うと?」
「書かなくても、誰も傷つかない」
「新聞は売れない」
「それはうちの都合です」
ローデリヒが深く息を吐いた。
「きれいごとだな」
「そうかもしれません」
「金にならん」
「でしょうね」
「腹立つな、お前」
「よく言われます」
ローデリヒはしばらく黙っていた。
それから机の上の報告書を指で弾いた。
「今回だけだ」
「ありがとうございます」
「次に同じ理由で大ネタを燃やしたら、その時はお前ごと放り出す」
「承知しました」
レオンは頭を下げ、編集長室を出た。
廊下の壁に、一枚の古い号外が貼られていた。
《辺境領兵糧横流し、ついに暴かれる》
紙は黄色くなっている。
記事の末尾に、小さく名前が印刷されていた。
『レオン・ハルト』
レオンはしばらくそれを見た。
やがて何も言わず、編集部へ戻った。
◇
数週間後。
レオンは別件でセレナを取材していた。
新しく王都へ入ってきた南方産の絹についてだった。
どうでもいいと言えば、かなりどうでもいい。
取材が終わり、レオンが記録魔道具を止める。
「以上です。ありがとうございました」
「ええ」
セレナは紅茶を飲みながら言った。
「結局、書かなかったのですね」
レオンの手が止まる。
「何のことでしょう」
「とぼけるのがお下手」
「書きませんでした」
「馬鹿ですわね」
「よく言われます」
「随分売れたでしょうに」
「編集長もそう言っていました」
「記者失格では?」
「それも似たようなことを」
セレナが笑った。
「本当に馬鹿」
「公爵令嬢に二回言われるとは思いませんでした」
「三回目もいります?」
「結構です」
セレナはカップを置いた。
「では、夕食でもいかが?」
レオンは顔を上げる。
「お礼なら結構です」
「寄付ではありませんわ」
「分かっています」
「では割り勘にしましょう」
「公爵令嬢が割り勘?」
セレナの目が細くなる。
「今の発言、記事にされたくなければ黙ってついていらっしゃい」
「職権乱用ですね」
「公爵令嬢ですもの」
堂々と言い切る。
二人は茶館を出た。
夜の王都はまだ明るい。
店先には魔石灯が並び、酒場から笑い声が漏れている。
少し先を歩いていたセレナが足を止めた。
振り返る。
「念のため申し上げますけれど」
「はい」
「今日は取材ではありませんからね」
レオンは少しだけ笑った。
「承知しています」
翌朝。
《王都通信》の一面には、またセレナの名前が載った。
《公爵令嬢セレナ、新作ドレスに金貨三百枚》
セレナから抗議は来なかった。
その月の終わり。
地方都市ローデン。
《暁の子ら基金》の事務室で、マルタは帳簿を確認していた。
決まった日。
いつもと同じ額。
寄付者欄には、
<<セレナ・アルヴェール>>
その横には、七年前から変わらない記載がある。
<<外部公表 不可>>
奥の食堂から声が飛んできた。
「マルタ! 今日、肉ある?」
「あるよ!」
「いっぱい?」
「食べてからのお楽しみ!」
歓声が上がった。
マルタは帳簿を閉じる。
厨房では、大きな鍋の中でシチューがゆっくりと煮えている。
名を伏せた金は、今日も誰かの夕食になった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレナは、実は聖女だったわけではありません。
派手なものが好きで、目立つのも好き。口も悪く、たぶん明日も誰かを怒らせています。
それでも、誰にも見せたくない善意がある。
人は「悪い人」「いい人」と、そんなに簡単には分けられないのかもしれません。
そしてレオンもまた、事実を書くことと、人を分かりやすい物語にしてしまうことの違いに気づきました。
悪女は今日も悪女のまま。
ただ、王都の誰も知らないところで、今日も誰かの皿には肉が入っています。
そんな物語でした。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




