第19話 戦時下の裁き
王都から半日の距離、霧深い森林地帯。
視界は白く濁り、数歩先すら判然としない。
湿った空気が肺にまとわりつき、金属音すら鈍く吸い込まれる。
「……視界だけじゃない。魔力探知まで死んでやがる」
ゴードン・シルヴェリス辺境伯が、舌打ちと共に剣を振る。
「酸に霧、おまけにこの物量だ。籠もるために特化した個体だな」
「ええ。ここで時間を稼ぐのが、こいつの『仕事』ってわけね」
白鎧の女騎士が、短く言った。
霧の奥で、ぬめる音。
巨大な軟体が脈動し、その表面から次々と魔物が吐き出されていく。
「手下に生き餌を運ばせるタイプか。……取り巻きもA級相当、油断するな」
戦線が、じりじりと押される。
「埒が開かない!」
一歩、前に出る影を見て、ゴードンは息を呑んだ。
白鎧の背中が、霧の中でやけに近く見える。
「私が突っ込むわ!」
「バカっ! まだ弱らせてない!」
振り返らず、女は言い切った。
「だから私が弱らせてくるのよ!援護して!」
次の瞬間。
セレスの身体が、淡い光を帯びた。
霧を裂き、地を蹴り、一直線に魔王へと突進する。
――人為的に作られた戦場で、
人の意志が、魔王へと叩きつけられた。
その戦いの結末が王都に届くより、ほんの少し早く。
王宮・大審問堂では、別の戦いが始まっていた。
高い天井に反響する、低いざわめき。
貴族席、聖職者席、王族席――すでに満席。
中央、高壇に設えられた裁判長席。
その左右には、王国法務官と聖法院の代表。
正面には王太子。
その隣に王妃。
被告席だけが、空席だった。
オデット・ロジポツ伯爵の一言が、
堂内の空気を、完全に塗り替えていた。
「この宮廷裁判が、たしかな裁判であるかどうか。そこから確認させていただきます」
ざわめきが走る。
「……確認とは、どういう意味だ」
裁判長が、低く問い返した。
「言葉の通りです」
オデットは一礼し、ゆっくりと顔を上げる。
「証拠があるかどうか、ではありません。証言が揃っているかどうか、でもありません」
視線が、貴族席をなぞった。
「この裁判が、今この時、この国で行われるにふさわしい裁判かどうか。その確認です」
侯爵が、わずかに口角を上げる。
「伯爵。抽象論は裁判に不要ですな」
「ええ。ですから具体的に申し上げましょう」
オデットは、法務官の机に積まれた書類を指さした。
「これら証言が集められた日時を、すべて読み上げていただけますか」
法務官の指が、止まる。
「……必要ですか?」
「必要です」
即答だった。
書記官が、淡々と読み上げる。
三か月前。
二か月前。
一か月前。
王太子の眉が、わずかに動いた。
「続けてください」
オデットは、止めない。
「それらの日、国境では何が起きていましたか?」
一瞬の沈黙。
「……北部戦線、魔物侵攻の報告が集中していた時期です」
軍務官が、低く答える。
「西方でも同様です。補給路が二度、寸断されています」
オデットは、ゆっくりと頷いた。
「戦時下です」
はっきりとした声。
「国王陛下は外征中。王国は、戦争の最中にあります」
視線が、王太子へ向けられる。
「前線で兵士が日々倒れている最中に、ここでは百人近い官僚が、一人の令嬢を追い落とすための書類仕事に没頭していた」
「……伯爵」
侯爵が、低く声を落とす。
「戦時であればこそ、国内秩序は厳格でなければならぬ。一人の貴族の逸脱を放置すれば、背後で魔物以上の混乱が生じる」
オデットは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
唇が、わずかに引き結ばれる。
――やはり、今、ここで止めねばならない。
「それ自体が、異常だとは思われませんか?」
ざわめきが、膨らむ。
「証拠を丁寧に積み上げれば、それが真実として押し通せるとお考えではありませんか?」
オデットの声は、静かだった。
「平和な国では、それもできたかもしれません」
一拍。
「ですが、戦時中の我ら、陛下の下では不可能です」
裁判長が、思わず杖を握り直す。
「伯爵。貴女は、この裁判そのものを否定するのか」
「いいえ」
首を振る。
「この裁判が、“何を裁いているのか”を確認しているだけです」
オデットは、一枚の書簡を取り出した。
「これは、王都近郊での魔物討伐要請の写しです」
どよめき。
「却下されています。理由は――」
視線が、侯爵席をかすめる。
「予算不足。人員不足」
侯爵が、低く笑った。
「戦時だ。やむを得ん判断だろう」
「ええ。戦時ですから」
オデットは頷いた。
「では、なぜその直後に、この裁判の準備は滞りなく進んだのですか?」
沈黙。
「誰が、人を動かし、金を動かし、時間を作ったのですか?」
それ以上は、踏み込まない。
――王都の外で、何かが起きている。
――その間、王都の中では、別の力が動いていた。
「裁判長」
オデットが、静かに一礼する。
「私は、この裁判の即時停止を求めません」
侯爵が、目を細める。
「求めるのは、ただ一つ」
視線が、王太子に向く。
「この裁判を、どなたが、何のために許可したのか。その確認です」
不機嫌を隠さない王太子が腕を組む。
王妃は、初めて視線を逸らした。
「……裁判長」
王太子が、声を出す。
「少し、時間をくれ」
裁判長が、頷きかけ――止まる。
その瞬間。
側扉が開いた。
伝令が、息を切らして膝をつく。
「報告!」
「許可する」
「王都近郊、霧の森にて魔王級を討伐!……繰り返します、魔王、沈みました!」
どよめきが、怒号に近いものへと変わる。
侯爵の指が、肘掛けを強く掴んだ。
「討伐者は白騎士団とシルヴェリス辺境伯! 現場より……『魔王を固定していた杭』が発見されました!」
オデットは、そっと目を伏せた。
(間に合いましたね)
裁判長が、杖を鳴らす。
「……本日は、ここまで。休廷とする!」
音が、堂内に響いた。
侯爵は、動かない。
王太子は、俯いたまま。
被告席は、最後まで空のままだった。
代わりに、法廷を埋め尽くす冷ややかな視線は、今や高壇に座る者たちへと向けられていた。




