第19話 戦時下の裁き
王都から半日の距離、霧深い森林地帯。
視界は白く濁り、数歩先すら判然としない。
湿った空気が肺にまとわりつき、金属音すら鈍く吸い込まれる。
「……視界だけじゃない。魔力探知まで死んでやがる」
ゴードン・シルヴェリス辺境伯が、舌打ちと共に剣を振る。
「酸に霧、おまけにこの物量だ。籠もるために特化した個体だな」
「ええ。ここで時間を稼ぐのが、こいつの『仕事』ってわけね」
白鎧の女騎士が、短く言った。
霧の奥で、ぬめる音。
巨大な軟体が脈動し、その表面から次々と魔物が吐き出されていく。
「手下に生き餌を運ばせるタイプか。……取り巻きもA級相当、油断するな」
戦線が、じりじりと押される。
「埒が開かない!」
一歩、前に出る影を見て、ゴードンは息を呑んだ。
白鎧の背中が、霧の中でやけに近く見える。
「私が突っ込むわ!」
「バカっ! まだ弱らせてない!」
振り返らず、女は言い切った。
「だから私が弱らせてくるのよ!援護して!」
次の瞬間。
セレスの身体が、淡い光を帯びた。
霧を裂き、地を蹴り、一直線に魔王へと突進する。
――人為的に作られた戦場で、
人の意志が、魔王へと叩きつけられた。
◇◇◇
その戦いの結末が王都に届くより、ほんの少し早く。
王宮・大審問堂では、別の戦いが始まっていた。
◇◇◇
高い天井に反響する、低いざわめき。
貴族席、聖職者席、王族席――すでに満席。
中央、高壇に設えられた裁判長席。
その左右には、王国法務官と聖法院の代表。
正面には王太子。
その隣に王妃。
被告席だけが、空席だった。
オデット・ロジポツ伯爵の一言が、
堂内の空気を、完全に塗り替えていた。
「この宮廷裁判が、たしかな裁判であるかどうか。そこから確認させていただきます」
ざわめきが走る。
「……確認とは、どういう意味だ」
裁判長が、低く問い返した。
「言葉の通りです」
オデットは一礼し、ゆっくりと顔を上げる。
「証拠があるかどうか、ではありません。証言が揃っているかどうか、でもありません」
視線が、貴族席をなぞった。
「この裁判が、今この時、この国で行われるにふさわしい裁判かどうか。その確認です」
侯爵が、わずかに口角を上げる。
「伯爵。抽象論は裁判に不要ですな」
「ええ。ですから具体的に申し上げましょう」
オデットは、法務官の机に積まれた書類を指さした。
「これら証言が集められた日時を、すべて読み上げていただけますか」
法務官の指が、止まる。
「……必要ですか?」
「必要です」
即答だった。
書記官が、淡々と読み上げる。
三か月前。
二か月前。
一か月前。
王太子の眉が、わずかに動いた。
「続けてください」
オデットは、止めない。
「それらの日、国境では何が起きていましたか?」
一瞬の沈黙。
「……北部戦線、魔物侵攻の報告が集中していた時期です」
軍務官が、低く答える。
「西方でも同様です。補給路が二度、寸断されています」
オデットは、ゆっくりと頷いた。
「戦時下です」
はっきりとした声。
「国王陛下は外征中。王国は、戦争の最中にあります」
視線が、王太子へ向けられる。
「前線で兵士が日々倒れている最中に、ここでは百人近い官僚が、一人の令嬢を追い落とすための書類仕事に没頭していた」
「……伯爵」
侯爵が、低く声を落とす。
「戦時であればこそ、国内秩序は厳格でなければならぬ。一人の貴族の逸脱を放置すれば、背後で魔物以上の混乱が生じる」
オデットは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
唇が、わずかに引き結ばれる。
――やはり、今、ここで止めねばならない。
「それ自体が、異常だとは思われませんか?」
ざわめきが、膨らむ。
「証拠を丁寧に積み上げれば、それが真実として押し通せるとお考えではありませんか?」
オデットの声は、静かだった。
「平和な国では、それもできたかもしれません」
一拍。
「ですが、戦時中の我ら、陛下の下では不可能です」
裁判長が、思わず杖を握り直す。
「伯爵。貴女は、この裁判そのものを否定するのか」
「いいえ」
首を振る。
「この裁判が、“何を裁いているのか”を確認しているだけです」
オデットは、一枚の書簡を取り出した。
「これは、王都近郊での魔物討伐要請の写しです」
どよめき。
「却下されています。理由は――」
視線が、侯爵席をかすめる。
「予算不足。人員不足」
侯爵が、低く笑った。
「戦時だ。やむを得ん判断だろう」
「ええ。戦時ですから」
オデットは頷いた。
「では、なぜその直後に、この裁判の準備は滞りなく進んだのですか?」
沈黙。
「誰が、人を動かし、金を動かし、時間を作ったのですか?」
それ以上は、踏み込まない。
――王都の外で、何かが起きている。
――その間、王都の中では、別の力が動いていた。
「裁判長」
オデットが、静かに一礼する。
「私は、この裁判の即時停止を求めません」
侯爵が、目を細める。
「求めるのは、ただ一つ」
視線が、王太子に向く。
「この裁判を、どなたが、何のために許可したのか。その確認です」
王太子が、唇を噛む。
王妃は、初めて視線を逸らした。
「……裁判長」
王太子が、声を出す。
「少し、時間をくれ」
裁判長が、頷きかけ――止まる。
その瞬間。
側扉が開いた。
伝令が、息を切らして膝をつく。
「報告!」
「許可する」
「王都近郊、霧の森にて魔王級を討伐!……繰り返します、魔王、沈みました!」
どよめきが、怒号に近いものへと変わる。
侯爵の指が、肘掛けを強く掴んだ。
「討伐者は白騎士団とシルヴェリス辺境伯! 現場より……『魔王を固定していた杭』が発見されました!」
オデットは、そっと目を伏せた。
(間に合いましたね)
裁判長が、杖を鳴らす。
「……本日は、ここまでとする」
「休廷とする!」
音が、堂内に響いた。
侯爵は、動かない。
王太子は、俯いたまま。
被告席は、最後まで空のままだった。
代わりに、法廷を埋め尽くす冷ややかな視線は、今や高壇に座る者たちへと向けられていた。




