第16話 訴訟準備
王宮の奥。
表向きには静謐を保つ執務区画。
その一室で、ライカイ侯爵は淡々と指示を出していた。
「件の男爵家には、今期の免税および交付金を倍額に」
書記官の手が、わずかに止まる。
「ああ、裁判に勝てたら、交付金は三倍にすると伝えよ」
「……かしこまりました」
返答は即座だったが、声はわずかに強張っていた。
「その、財源はどうなさいます……?」
「公爵家からの賠償金を充てればよい」
一瞬、室内の空気が張り詰める。
だが、誰一人として異を唱えない。
「その旨、通知いたします。……次は、ドルド・ロジポツ伯爵ですが、宮廷裁判への協力を要請してよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
ライカイ侯爵は、さも当然のように言った。
「私の妾だった女が、あやつの今の正妻なのだからな」
隠しきれない自慢げな口調。
その言葉に、若い補佐官が思わず視線を伏せる。
「その恩を忘れたとは言わせぬ。……オデットが公爵家につきおったのだ。親には、誠意を見せてもらわねばな」
「は……では、裁判への出廷を要請いたします」
権力を行使する。
金を回す。
王妃の実弟であり、
王太子の叔父。
そして、神聖国教皇の長男。
血筋だけで、反論は封じられる。
反対意見は、出ない。
出させない。
目下の標的は、公爵令嬢メイリーン・ショカルナ。
王太子の婚約者でありながら、侍女たちを連れて東宮を去った女。
罪状は整っている。
王命への不服従。
王太子の威信を損なった行為。
そして――禁忌に触れた疑い。
宮廷裁判。
呼び出し状は、すでに用意されていた。
◇◇◇
禁図書館。
天窓から柔らかな光が降り注ぐラウンジスペースで、白と黒の駒が、静かに盤上を行き交っていた。
メイリーンは盤面を見つめ、指先で一つ、駒を摘まむ。
「……侯爵まわりだけ、探知が効かないのよね」
対面の老人が、愉快そうに喉を鳴らす。
「ほほほ。あやつな。きな臭いの」
「ええ。もう侯爵だけ斬っちゃえばいいかって、思ったこともあるけれど……」
「ほほ、さすがお転婆姫じゃの」
「ちょっと!最近は、そんなに暴れてないから!……大人しい引きこもりで知られてるはずよ……たぶん」
老人は駒を動かしながら、ゆっくりと告げた。
「侯爵につくのは、神か悪魔か。少なくとも、魔王級じゃの」
メイリーンは、小さく息を吐いた。
「そう。仕留めたとしても、結局、別の元凶がいる。……証拠も、今は足りない」
強引に動けば、こちらの切り札も一枚、表に出る。
「ふむ……教皇あたりは絡んでおろうな。並大抵ではあるまいて」
一瞬の沈黙。
盤上では、すでに勝敗が傾いている。
それでも、メイリーンは駒を進めない。
「……あとね。ミサラサ様との婚約のことだけど」
少しだけ視線を落としてから、続ける。
「ごめんね。彼との結婚は無理。……興味を持てないもの」
老人は、くつくつと笑った。
「ほほ。ワシに遠慮することないぞい。『悪を斬るに迷い無し』それが白騎士じゃろ。斬ってもかまわん」
ニヤリ、と皺だらけの顔が歪む。
「ううん。命まではとらないわ」
メイリーンは、はっきりと首を振った。
「……でも、機能を除くことになると思う。女の子たちにしたことは、許されないから」
「ほほ、寛大じゃの」
老人は盤面を指先で示す。
「……ほれ、お主の番じゃ」
そのときだった。
静寂を破る、軽い足音。
「メイ様っ!」
息を切らしたオデットが、ラウンジへ駆け込んでくる。
「どうしたの?」
「提訴されました!宮廷裁判です! 正式な呼び出し状が……!」
一瞬、空気が凍る。
だが、メイリーンは騒がなかった。
盤面を一瞥し、駒に触れないまま、手を止める。
「……勝負どころ、ね」
老人が、低く笑う。
「ほほ……その王は、偽物じゃぞ」
メイリーンは、静かに微笑む。
「ええ。だから――詰ませるのは、もっと奥」
視線は、その先にあった。




