2-1 許嫁の決断と老参謀の帰還
あの嵐のような債権者団との面談から、一夜が明けた。
シュテルン男爵領の、古びた領主館。その主執務室——昨日までは父ヘルムートが使っていた部屋——で、アレスはたった一人、山積みの電子データと格闘していた。
十歳の小さな体には不釣り合いな、巨大なマホガニーの執務机。その上には、領地の人口動態、税収の推移、インフラの維持管理費……といった、およそ子供の目には触れさせるべきではない、絶望的な数字が並んだディスプレイが明滅している。
(ダメだ、詰んでる……)
アレスは、頭を抱えた。
中身は三十五歳のサラリーマンとはいえ、彼が扱ってきたのはせいぜい数億円規模のプロジェクトだ。
桁が違う。
八十五億クレジットの負債。
そして、手元に残されたのは、この赤字惑星のみ。
(インフラ維持費が、最低限の税収を遥かに上回っている。エネルギーも、食料も、何もかもが足りない。これは……倒産寸前の、いや、すでに倒産している企業のバランスシートだ)
前世の記憶が、この状況を「清算案件」だと断定している。
だが、彼には「清算」する権利も、「破産」する自由もない。
一年。
一年後に結果が出せなければ、自分だけでなく、シエラまでもが奴隷落ちだ。
(まずは、現状把握だ。どんなクソ案件でも、リソースの棚卸しから……)
アレスが、寝不足で霞む目をこすった、その時だった。
コン、コン、と控えめなノック。
「……どうぞ」
入ってきたのは、プラチナブロンドの髪をきっちりと結い上げた、シエラその人だった。
彼女もまた、子供には不釣り合いなほど、深刻な顔をしていた。
その手には、通信端末が握られており、着信ランプが執拗に点滅している。
「……おはようございます、アレス様」
「ああ、おはよう、シエラ嬢。昨日は……その、すまなかった」
アレスは、椅子から降りて、素直に頭を下げた。
「君を巻き込んだこと、改めて謝罪する」
「……いえ」
シエラは小さく首を振った。
彼女は、点滅する端末を一瞥し、アレスを真っ直ぐに見据えた。
「父からです」
「……だろうね」
「『即刻帰還せよ』、と。そして、『シュテルン家との婚約は、ただちに破棄する』、と」
それは、あまりにも当然の、そしてアレスにとっても望むべき結末のはずだった。
「……それが、賢明な判断だ。君の父君は正しい。こんな泥舟に、君を付き合わせるわけにはいかない」
アレスは、精一杯の「大人」の顔で、彼女に微笑みかけようとした。
「宇宙港までの護衛と船の手配を——」
「お断りします」
「……え?」
アレスは、自分の耳を疑った。
シエラは、アレスの言葉を遮るように、強い口調で言った。
「その通信は、今朝からずっと無視しています」
「な……!? なぜだ! 君には関係ない! 逃げろと言ったはずだ!」
思わず、前世の「山田健一」の口調が混じる。
すると、シエラは、昨日までの怯えた少女の顔ではなく、まるでアレスを試すかのような、挑戦的な笑みを浮かべた。
「関係なくは、ありませんでしょう?」
「なに?」
「昨日、あの悪魔のような契約書に、こう書かれていました。『違約の場合、全動産を差し押さえる』と。そして……あの男は、こう言いました。『あなたの許嫁殿も含めた』、と」
「……っ」
「私は、すでにシュテルン男爵家の『動産』として、担保に組み込まれているのです。違いますか?」
アレスは、言葉に詰まった。
法的に言えば、その通りだった。
辺境貴族の政略結婚など、その程度の認識でしかない。
「逃げたところで、3年後、アレス様が失敗すれば、私は実家から無理やり連行され、奴隷市場に送られる。……そうでしょう?」
「そ、それは……詭弁だ! 君の実家が抗議すれば……」
「抗議? 誰に? 銀河中央銀行にですか? 辺境の弱小貴族が?」
シエラは、フン、と鼻を鳴らした。
彼女もまた、貴族の娘として、この世界の「現実」をアレス以上に理解していた。
「アレス様。私は、昨日、決めました」
彼女は、点滅していた通信端末の電源を、無慈悲に、ブチリと切った。
「……!」
「奴隷として売られるのも、この赤字惑星であなたと心中するのも、結末は同じ『破滅』です。ならば……」
彼女は、アレスが広げていた絶望的な収支報告書を、その細い指でトン、と叩いた。
「私は、万に一つの可能性に賭けます」
「シエラ嬢……」
「昨日、あなたは言いました。『知識がある』と。あのハイエナ共を前にして、あの状況で、あなたは『3年』という時間を勝ち取った。……常軌を逸しています」
シエラの瞳が、好奇心と、そしてわずかな恐れに揺れていた。
「私には、あなたの『知識』とやらが何なのか、皆目見当もつきません。ですが、このまま座して『奴隷』になるくらいなら、その狂気の沙汰に乗って差し上げますわ」
アレスは、呆然と彼女を見つめていた。
(この子……肝が据わりすぎている……)
「……いいのか? この選択は、君の人生を……」
「私の人生は、私が決めます」
シエラは、アレスの執務机の向かい側にあった客人の椅子に、無断で、どかっと腰を下ろした。
「幸い、私は隣の星系とはいえ、貴族の娘として内政と経理の基礎は叩き込まれています。その……絶望的な帳簿、見る限り、あなたに経理の才能はなさそうですし?」
「うぐ……」
前世でも、経費精算は苦手だった。
「私が、この家の財政と内政を、今日この瞬間から管理します。あなたは、あなたの言う『戦略』とやらで、どうやってこの星系を立て直すかだけを考えてください」
「……」
「よろしいですね? 男爵閣下」
十歳の少年と、十一歳の少女。
不釣り合いな二人の視線が、火花のように交錯した。
やがて、アレスは、ふっと息を吐いて笑った。
「……負けたよ。シエラ嬢。いや——」
彼は、サラリーマンの顔で、深く頭を下げた。
「シエラ先生。どうか、よろしくお願いいたします」
「……! せ、先生はやめてください!」
シエラが顔を赤くした、その時だった。
ドンドン! と、今度は執務室の扉が乱暴にノックされた。
老執事のゼバスが、慌てた声で飛び込んでくる。
「あ、アレス様! 大変です! ガンツ様が……! あの、ガンツ様がお見えになりました!」
「ガンツ?」
アレスの(十歳の)記憶にはない名前だった。
だが、シエラは「あっ」と声を上げた。
「ガンツ……。まさか、先代に仕えていたという、あの『鬼教官』の……?」
「左様です! ヘルムート先代様と喧嘩別れ同然で退役された、元帝国軍艦隊司令の、ガンツ様が……!」
ゼバスが言い終わる前に、その背後から、重厚な足音と共に、大柄な老人が姿を現した。
「……騒がしいぞ、ゼバス。わしはまだ死んではおらん」
齢は六十は超えているだろうか。
だが、その背筋は鋼のように伸び、短く刈り込まれた灰色の髪と、顔に深く刻まれたシワが、彼がただの老人ではないことを物語っていた。
磨き抜かれた、しかし旧式な帝国軍の制服。
その男、ガンツは、アレスの姿を認めると、その鋭い鷲のような目で、頭のてっぺんから爪先までを、値踏みするように見つめた。
「……あなたが、アレス様か」
「あ、ああ。私がアレス・フォン・シュテルンだ」
「ヘルムート様の、ご子息……」
ガンツは、アレスを無視するように部屋に入ると、壁にかかった父ヘルムートの肖像画(これもまた、ひどく色褪せていた)の前に立ち、無言で敬礼を捧げた。
長い、静寂。
アレスとシエラは、その老人の放つ凄まじい圧に、息を飲むことしかできなかった。
やがて、ガンツはゆっくりとアレスに向き直った。
「……先代の葬儀にも出られず、申し訳ない。わしは、帝国軍のやり方……いや、あの『儀礼ごっこ』の戦術に嫌気がさし、退役した身だ。先代とは、口論の末にここを飛び出した」
「……」
「だが、恩義はある。ヘルムート様は、わしのような偏屈な軍人を、最後まで信じてくださった」
ガンツは、アレスの目を見た。
十歳の、子供の目。
だが、その奥に宿る、昨日とは違う「何か」を、この老練な軍人は見逃さなかった。
「……昨日、ハイエナ共が来たそうだな」
「……ご存知で」
「あの連中のやり口は知っておる。して、アレス様。あんたは、どうなさる?」
試すような、問い。
「この星を捨て、シエラ嬢と共に逃げるか? それとも、ハイエナ共の軍門に降り、奴隷頭として余生を送るか?」
それは、あまりにも酷な、だが的確な質問だった。
アレスは、この老人を値踏みし返した。
(……本物だ。前世の記憶で見た、歴戦の指揮官の目だ)
ここで嘘やハッタリは通用しない。
アレスは、まっすぐにガンツの目を見返した。
「どちらでもない」
「ほう?」
「借りは返す。だが、奪われたものは、奪い返す」
「……!」
「ガンツ殿。あなたは、帝国軍の『儀礼ごっこ』に嫌気がさしたと言った。ならば、聞こう。俺の『戦術』は、帝国のそれとは、根本から異なる。あなたは、それでも俺に従えるか?」
十歳の少年が、六十の老将に、問いを投げ返す。
常識で考えれば、滑稽な光景だ。
だが、ガンツは、笑わなかった。
彼は、アレスの目の中に、自分と同じ……あるいは、それ以上に深く、冷たい、「戦略」の光を見た。
「……ヘルムート様」
ガンツは、再び肖像画を見上げた。
「あなたの息子御は……。どうやら、とんでもない『大物』のようだ」
彼は、ゆっくりと、しかし完璧な動作で、アレスの前に膝をついた。
帝国軍の、最敬礼。
「ガンツ。この老いぼれではありますが、先代への恩義に報いるため、そして……アレス様のその『目』に賭けるため」
「この命、軍事顧問として、あなた様に捧げましょう」
アレスは、その手を取った。
「……感謝する、ガンツ。俺の『剣』になってくれ」
こうして、嵐の二日目にして、新・シュテルン男爵領の最初のチームが結成された。
当主兼戦略担当、アレス。
内政・経理担当(許嫁)、シエラ。
軍事顧問(老参謀)、ガンツ。
三人の平均年齢は、およそ二十七歳(うち一人が六十代)という、歪な船出だった。




