宴
ユキは歩み去るソンロウの背を、切なく見送った。
八尺を越える身の丈に、黒と白銀の混じった美しい毛並み。白狼の里一番の手練れとうたわれ、その賛辞に相応しいとひと目でわかる練り上げられた体躯。腕一本でも、ユキの胴ほどもありそうに太いのだ。
ソンロウのことを羨望だけでない、強いあこがれをもって見るようになったのは、いつごろからだったろうか。
(おれは、先生の弟分でしかないんでしょうか)
ユキは深くため息を吐いた。
その晩、すぐに宴が開かれた。
ソンロウたち調達役の無事の帰還の祝いと、ユキの婿取りの報せを兼ねたものだった。
すっかり夜のとばりが落ちた頃――岩壁の住処の中のいっとう大きな広間を、壁に据えられた燭台の火があかあかと照らし出していた。
「みな、よう集まってくれた。戦士たちの帰還を、存分に祝ってやってくれ」
族長が、なみなみと酒の満ちた杯を掲げると、広間中からおうと歓声が上がる。
すでに、村人たちが押し寄せ、飲めや歌えやの大騒ぎが始まっていた。
陽気な白狼の一族は、宴会が好きだ。みなで心行くまで騒ぐため、宴では、厨番のものたちが腕を振るったご馳走と、たっぷりの酒が振舞われる。それを用意するのは族長の一家の手腕であった。
「みな、心行くまで楽しんでくれ!」
部屋の中央に敷かれた筵には、火に炙られ肉汁の滴る獣の肉や、舌をぴりりと刺す香辛料と川魚の煮込み料理、木の皮に包んで蒸しあげた木の実入りの飯などのご馳走がずらりと並ぶ。酒飲みが多いため、酒は強いものを壷でいくつも用意している。
「やあ、酒は足りていますか」
「おお、ユキ様。かたじけない!」
ユキは酒の壷をひとつ担ぎ、広間を練り歩きながら酌をして回っていた。宴は、主催者の家族が取り働くものだ。とくに後継ぎであるユキは、規範となるべく率先して動いていた。
「俺にも!」
「俺にもください!」
「はいはい、たくさんありますからね」
次々と差し出される空の杯に、柄杓で酒をなみなみと満たす。きりがないが、皆の楽しそうな顔を見ると嬉しい。
(お酒は、まだ大丈夫。飯も……あっ、炙り肉の減りが速いな。厨におかわりを頼まないと)
ちょいちょいと空いた皿を引き、ぐずる幼子に果実をむいてやり、酔っぱらった先輩たちの話に相槌を打つ。小さな体躯でちょこまかと働くユキを、赤ら顔の戦士たちは微笑ましそうに眺めていた。
「これは、ババ様の予言は正しいやもしれませんなあ」
「ユキ様は、よい嫁御になられますぞ」
酔っぱらった父の腹心たちにはやされ、ユキはかっと目を見ひらいた。
「な、何を言うのです!」
「わっはっは」
満座がどっとわき、ユキは肩を竦める。
族長が、みなに花嫁はユキであると告げたのは、宴の始まる前だった。
『まあ……ババ様が仰るなら、仕方なかんべな』
『族長の一族から出さにゃならんしの』
絶対に非難ごうごうに違いないと思ったのに、案外あっさりと受け入れられてしまったのだ。
男の嫁など認めんと、乱闘になる可能性も見ていたので、拍子抜けしてしまった。改めて、父とババ様の敬われぶりに舌を巻いてしまうユキである。
「ほんとに、おれが花嫁で良いのでしょうか?」
戦士たちに酒を注ぎながら、恐る恐る尋ねると、ガハハと笑い飛ばされる。
「なに、むさい奴ならごめんだが、ユキ様なら。それに結婚すりゃ、次期族長です。お釣りがきまさあ」
「ここはひとつ。うちの倅なんか、どうですかね?」
「馬鹿野郎、あんな腕っぷしだけの不細工。うちのはまだちっと小さいですが、なかなか美形ですぞ」
「まだ生まれたばかりだろうが!」
やんややんやと「うちの息子をぜひ」と勧められ、ユキは狼狽した。おれのような雄狼に大事な子息をいいのだろうか。みな、受け入れるの早すぎじゃないかと遠い目になる。
(もめ事になるよりは良い。でも、こうもあっさり受け入れてもらうのもなあ……)
雄狼として恥ずかしいような、悲しいような気もする。いままで、後継ぎになるべく頑張って来た日々を思い、トホホといじけてしまいそうだ。
愛想笑いをしつつ、内心でしょんぼりしていると、酔客のひとりがぐるんと上座を振り返る。
「のう、ソンロウ殿はどうじゃ! どこの倅が、ユキ様に相応しいと思う?」
ユキは、どきりとした。
「――んん?」
美しい雌狼たちに囲まれ、酒を飲んでいたソンロウが聞き返す。
「ユキ様の師匠の目から見て、だれが婿に相応しいかのう?」
黄褐色の眼が、ちらりとこちらを見たのがわかり、ユキは頬を火照らせる。
(ばかばか、そんなこと先生に聞かなくたって!)
好いた相手に聞かれては、とても居たたまれない。ユキは慌てて立ち上がり、ソンロウに何でもないと言おうとした。が、それより先に、低くつやのある声がこたえた。
「ユキ様の婿か。そりゃあ、族長に相応しい立派な雄が良いでしょうな」
「おお!」
どっ、と周囲がますます盛り上がる。「なら、俺が」「いや、うちの息子を」と勧められながら、ユキは気分がしゅるしゅると萎んで行くのを感じていた。
ぺたん、と座り込む。
(さらっと、答えちゃうんだ……)
うかがい見たソンロウは、もうこちらを見てはいない。楽しそうに、酒を飲んでいる。その両肩や上衣をはだけた胸に、雌狼たちが甘えるようにしなだれ、寵を競っていた。
「ソンロウ様ぁ、もっと飲んでくださいな」
「だめよ、あたしが注ぐのよ」
「いいえ、あたしよ!」
「ほらほら、喧嘩するな。久々に会ったんだ、みなで仲良くしようや」
「きゃあっ。やだぁ、ソンロウ様ったら~!」
ソンロウが彼女らをひとまとめに抱くと、ひときわ華やかな笑い声が上がった。
(先生……)
あまりに楽しそうな様子に、ユキは思わず立ち上がる。
誰よりも腕が立ち、見目の良いソンロウはたくさんの雌狼に愛されていた。……彼が、その誘いを断らないことだって知っていた。しかし、わかってはいても、胸は苦しい。
空の酒壷を背負い、近くにいた弟に声をかけた。
「ジン」
「あっ! な、なに、兄さん?」
弟が、ぎくりと大げさに肩を震わせる。友達と一緒に蒸し飯を食べていたのを、咎められると思ったのだろう。ユキは、にっこりとほほ笑み、弟の肩を叩いた。
「ご苦労だったな。あとは、おれだけで何とかなるから、宴を楽しみなさい」
「……いいの?! ありがとう、兄さん!」
ぱっと破顔した弟の頭を撫で、ユキは厨に駆け込んだ。新しい料理と酒の壷を受け取ると、また騒がしい宴会場に戻る。
「さあ、酒も料理もまだまだあります。みなさん、ご遠慮なさらずに!」
はきはきと言えば、歓声が上がる。
(とにかく、動こう。忙しく働けば、うだうだ考えずに済む……)
宴のあいだ、ユキはせっせと客人の世話を焼いた。――その様子を、上座からソンロウがじっと眺めていたことは、ついぞ気が付かなかった。