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あなたが美しい

(なんだか、妙なことになっているぞ)


 ユキは、冷たい水で満たした手桶に、清潔な布をくぐらせながら思った。

 村人の厚意で、藁小屋を借りてソンロウの身の回りの世話をしようというのだが――。


(なんだろう……この、妙に気を遣われている感じはっ!?)


 村人たちの温かい視線を思い出し、頬に血が上る。別に、雄の狼同士なんだから、その辺で着替えりゃいいじゃないか。


「おーい、坊。お前は着替えんでいいのか」


 ソンロウの呑気な声に、ユキはぱっと顔を上げる。


「あ、はい。おれは、砦に帰ってから着替えようかと――」


 と言いかけて、息を飲んだ。


「そうかあ? お前の分の衣も、用意してくれてるみてぇだぜ」


 籠から、白い衣を摘まみ上げ、ソンロウが言う。ユキは声も出せない。

 ソンロウは上衣を脱ぎ、簡素な下履きだけになっていた。むき出しになった見事な肉体に、目が釘付けになる。


(す……すごい……)


 太い首に、がっしりと広く骨の張った肩。全身にみっちりと筋肉がのり、その全てが極限にまで鍛え上げられていた。

 筋肉の盛り上がった逞しい胸は返り血と汗に濡れ、噎せる程の熱気を発している。

 獰猛。その一言に尽きた。


「……あっ」


 ユキは急に、自分がか弱い雌にでもなった気がし、慌てて目を逸らした。

 心臓がどきどきと高鳴り、背に汗が滲む。


「おい、坊。聞いてるか……」


 答えないユキにしびれを切らしたように、近づいて来たソンロウが、途中で話すのをやめる。


「……ふーん。ほぉ」

「な……なんですか?」


 どこか、面白がるような声が降ってきて、目を上げる。ソンロウは声と同じような表情を浮かべ、ユキを見下ろしていた。


「いや? なんでもねぇよ。そろそろ、俺の花嫁殿に世話を焼かれてえんだがな」

「……はっ! すいません」


 よっこいしょ、と目の前にソンロウが胡坐をかいて座る。「布をくれ」という気配もなく、ユキの顔をじっと見つめている。彼の顔には、にまにま、と表現するに相応しい笑みが浮かんでいた。


(先生……面白がってる?)


 ユキは、はっとする。ソンロウはのんびりと頬杖をついているようでいて、ユキがどう出るかを測っているようだった。

 お前に、妻のように振舞うことが出来るのか、と――。


「……!」


 刹那、負けん気が湧き起こる。

 ユキは布と桶を抱え、ソンロウの前にどかりと膝をついた。


「ソンロウ様。いま、お体を清めさせていただきます」


 わざとしおらしい言葉を使うユキに、ソンロウは目を瞬いた。それから、ぷっとふき出す。


「ああ、頼む。ユキ様」

「はい……!」


 笑って差し出された腕を、濡らした布で拭く。返り血と砂埃を拭っていくと、かすり傷ひとつない肌があらわれる。ユキは感嘆の息を吐いた。


(さすがだ……あの数相手に)


 布を桶で洗い直し、肩も同様に拭う。せっせと作業する間、ソンロウは意外にも揶揄ったりはしない。ゆったりと目を閉じて、ユキに身を任せてくれていた。

 ただ、なめらかな肌に亀裂のように浮かぶ無数の傷跡に触れるとき、くすぐったそうにするくらいで。


「……痛くは、ありませんか?」

「いや。心地よい」

「よかった」


 のんびりと応えを返すソンロウに、ほっとする。


(幼いころから、怪我をした父や弟たちの面倒を見ていた甲斐があったな)


 幼くして母を失ったユキは、自然とそのかわりも務めてきた。昔は、傷だらけの父を見るたび心細くて仕方なかったが、なんでも経験しておくものである。


「背も拭いますね」


 宣言し、広い背の後ろに回る。たっぷりとした白と黒の毛並みが背に広がっていて、おおと声が漏れた。そっと触れてみると、ふわふわと温かい。


(うわあ、やわらかい……!)


 返り血で、多少ごわごわしているのが残念だが。ユキは、子供のように目を輝かせて、ソンロウの毛並みに指を絡めた。ここは、ことさら丁寧に血を拭わねば――。

 意気込んでいると、ひょいと伸びてきた手に、束で取りあげられてしまう。


「ああっ!」

「そこはいい。背の方をやってくれや」


 ぶっきらぼうに言われ、唇を尖らせる。


「そうおっしゃらず、任せてください。血でもつれて、大変なことになっております」

「気遣いはいらん。――もともと、美しい毛並みでもねえからよ」

「……先生」


 自嘲するような口ぶりに、ユキは目を見張る。


(……斑の毛並み、だからか……?)


 ソンロウの毛並みは、黒狼と白狼の両方の特徴を持つ。白一色の群れの中では、ソンロウの毛並みは奇異の目で見られることも多い。

 だが――ユキは、ギュッと拳を握った。


「おれは、そうは思いません!」

「……あ?」


 怪訝そうなソンロウの正面に回る。黄褐色の目を真っ直ぐに見上げた。


「おれには、先生の毛並みがいっとう美しいです。白と黒の……稲妻の降る前の空のようで。この毛並みが空に閃くと、心が躍るんだ。――ああ、先生が来てくれた、って」


 そっと手をのばし、逞しい胸元に垂れた毛並みに触れる。ソンロウの肩がぴくりと動いたが、知らぬふりをして続ける。


「今日だって、先生が来てくださったと、すぐに気づきました。おれは……いや、皆も先生を美しいと思っていますとも!」


 ありたけの思いを込めて、ユキは言う。

 ソンロウの黄褐色の目が、数度またたく。


「……ユキ」


 ぬっと大きな手が伸びてきて、ユキはきゅっと唇を結ぶ。若輩のくせに、先生の心にずかずかと踏み込んだのだ。殴られたとしても、文句は言えない。

 すると、ぽんと頭に優しい重みがのった。


「……え?」


 ゆらゆらと、頭を左右に揺らされる。撫でられているのだと気付き、きょとんと目を丸くする。


「……お前という奴は、」


 ソンロウが、優しい呆れ声で言う。


「本当に物好きだな」

「な……!?」


 ユキは、むっとする。


「そんなことありません! 先生は――」


 反論しようとした瞬間、後頭部に手が回り、ぐいと引き寄せられる。


「んっ……!?」


 あたたかく、乾いた唇に言葉を奪われる。突然のことに棒のようになるユキの背を、もう一本の腕が固く抱きしめていた。


「あ……ッ、せん、……っ」


 噛みつくように口づけられ、吐息が漏れる。ユキは、あぐらをかいたソンロウの膝の上に乗せられていた。かつて、羨望の眼差しでながめた、雌たちのように……。


「……んぁっ!?」


 顎を甘噛みされ、肩がびくりと跳ねる。がぶ、と頬や喉にも、噛みつかれてしまう。


「せん、せ……痛い、です……!」


 牙が食い込んで痛いのに、じゃれるような仕草に、信じられないほど胸が高鳴る。逞しい肩にしがみ付いていると、ソンロウがふと言った。


「……こんな風に、誰かに触れさせたことは?」


 ユキは、ぎょっと目を見ひらく。


「あ――あるわけ、ありません!」


 心外だ。ユキは、抱きあげられているせいで、少し下にあるソンロウの目を睨みつけた。


「おれは、あなたという目標に追いつくため、必死でしたから……!」


 よそ見をする暇などあるものか。かっかするユキを、ソンロウは目を丸くして見上げていたが、ぷっ、とふき出した。


「坊は、かわいいことを言う」

「本心ですっ!」


 お世辞だと思っているのかと、ユキはむきになって言い募ろうとした。だが、一瞬早く、ソンロウに抱き寄せられてしまう。再び唇が重なる。

 口のあわいから滑り込んできた舌が、ユキのそれに絡んだ。


「……っ、ふ……」


 ぴったりと接した唇の中で、甘い水音が響く。ソンロウの舌は奔放に、ユキの口内を暴れた。そのくせ、ユキも知らない敏い場所を探り当てては、面白げに可愛がってくる。


(溶けてしまう)


 ユキは甘く痺れるような感覚に慄き、きつく目を閉じる。

 初めて唇を重ねたときよりずっと深く、甘い陶酔。……溺れてしまいそうだ。


「は……っ」


 漸く、唇が離れたときには、息も絶え絶えになっていた。ぐったりと分厚い胸に凭れかかると、抱き留められる。

 ユキの濡れた唇を舐めて、ソンロウが呟く。


「このようなことも知らず、生きてきたわけか。本当に、坊は真っ白だな」

「先生……?」


 浅い息を吐きながら、ソンロウの腕の中でユキは目を瞬く。


「……おいやですか?」


 不安に胸がチクリと痛む。経験豊富なソンロウの相手は、自分のような子供ではつとまらぬという事だろうか。

 ソンロウはふっと笑い、大きな手で、ユキの白い毛並みを撫でた。


「お前は美しいと思っただけだ」

「……先生……」


 鼻先を軽く啄まれ、とくんと胸が高鳴る。


(美しいなんて……)


 言葉を乞うたようでばつの悪い気もしたが、嬉しい。逞しい胸元に額を寄せると、ソンロウが抱いてくれる。


「結婚すれば、また様々に楽しみもあるだろう」

「はいっ」


 ユキは、ぱっと破顔した。


(先生が、結婚について話して下さった!)


 前向きな言葉を引き出せた気がして、尻尾がぱたぱたと振れる。

 熱い肌から漂う香気に、くうんと鼻を鳴らす。すると、大きな手のひらが頭を撫でてくれ、ますます嬉しくなる。


「――」


 ソンロウが深く考え込むような目をしていたことに、ユキは気づかなかった。


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