第四章:音楽室の扉(後編)
放課後の廊下は、妙に静かだった。アオイはその静けさの中を歩きながら、制服の袖口をぎゅっと握る。
(……やっぱり、行くべきじゃないかも)
でも、足は止まらなかった。止めようとしても、まるで誰かに引かれているように進んでしまう。
“明日の放課後、旧校舎の音楽室に来て”
ミナは確かにそう言った。 旧校舎。存在は知っていても、足を踏み入れたことはなかった。 それなのに今日は、何のためらいもなく、アオイの足がそこへ向かっていた。
校舎を繋ぐ渡り廊下を抜けると、空気がひんやりと変わる。古い建物特有の匂い。廊下の窓越しに見える空は、今日も変わらず「青」だった。けれど、その青が、妙に“塗られた色”のように見えた。
旧校舎の最奥、音楽室の扉の前に立つ。 ドアには鍵がかかっているはずなのに、そっと押すと、軋んだ音を立てて開いた。
---
ギィ……。
空気が違った。温度ではない。においでもない。 目に見えない“圧”のようなものが、静かに部屋の隅々に沈んでいた。
部屋の中央、グランドピアノの横に、ミナが立っていた。
「来てくれたんですね、アオイさん」
「……ほんとに、ここにいたんだ」
「ええ。約束でしたから」
その声は淡々としていて、昨日とまったく変わらない。けれど今は、その静けさに妙な重みを感じる。
ミナは、部屋の隅にあるスピーカーの前へ歩いていった。 「あなたが“見た空”のこと、まだ覚えていますか?」
「……忘れられるわけない」
ミナがスイッチを入れると、古びた機械がゆっくりと起動音を上げる。ノイズ、風の音、ざらつく音の重なり。そして、その中に微かに——
> 「……あおく……ない……そらは……ちが……う……」
耳の奥が、ぞわりと震えた。 言葉にならない震えが、アオイの背骨を這い上がる。
「……やめて」
ミナが操作を止めようとして、一歩アオイに近づいた。
「アオイさん、待って。無理しなくていいです」
でもアオイは、一歩、二歩と後ずさる。
「ごめん……でも、怖いの。もう、無理」
ミナの手が伸びかけた。
「少しだけでも、話を——」
「……もう、行く!」
返事も待たず、音楽室を飛び出した。 足音だけが、旧校舎の廊下に響いていた。
---
翌朝。 朝食の席で、アオイは妙に静かだった。母はコーヒーを飲みながら新聞をめくっていたが、アオイが急に口を開いた。
「……ねぇ、お母さん。旧校舎って、いつまであるの?」
母は何気なく答える。
「旧校舎? 昨日の昼に通知があったけど、今日から取り壊しが始まるって言ってたわよ」
アオイの手が止まる。
「……そんな、急に?」
「古くて危ないし、前から検討されてたのよ。なにかあったの?」
「……ううん。なんでもない」
そう言ったけれど、胸の奥がざわざわと騒いでいた。
(あの場所、もう入れないの……?)
次の日。 学校の敷地の端、旧校舎に続く渡り廊下には「立入禁止」のロープが張られていた。 数人の作業員がヘルメット姿で測量機を立てている。
音楽室は、もう封鎖されていた。 昨日、ミナがいた場所。 あの音が流れた場所。 そして、まだ聞き終わっていなかった“記録”。
アオイはしばらく立ち尽くしていたが、やがて無言で踵を返した。
その背中に、風が吹いた。 その風の音が、昨日聞いた“あの声”と混ざって聞こえた気がした。
> 「……そらは……ちが……う……」