第二章:視線の奥
昨日のことが、夢だったらいいのに。
アオイは、カーテンの隙間から差し込む朝の光をまぶしそうに目を細めた。昨日、あんなに怖い思いをして、あんなに泣いて震えて、逃げ帰ってきたのに——気づけば、いつの間にかベッドで眠っていた。体が勝手に帰ったのか、記憶が曖昧で、自分でも不安になる。
時計の針は、いつも通りの時間を指している。制服に着替え、リビングに向かうと、母がコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、アオイ」
いつも通りの母の声。淡々としていて、感情が読めない。
(お母さん……知ってるのかな。名札にエラーが出たこと)
母は情報庁で働いている。政府関係の重要な仕事だ。どこまで知られているのか、考えるだけで心臓がバクバクした。
学校へ向かう道すがら、アオイは周囲を何度も振り返った。通行人の中に、昨日の追手が紛れているような気がしてならない。前を歩く男子生徒の髪がわずかに揺れるたび、誰かの合図ではないかと疑ってしまう。
(みんな、ただの人?それとも、誰かの目?)
教室に着くと、視線を感じた。
「アオイ、おはよ!」
隣の席のナツキが笑顔で声をかけてくる。その笑顔が、作られたもののように見えるのは気のせい?
(ナツキも……? いや、まさか)
教壇に立つ先生、掃除をしている用務員、校門に立っていた風紀委員——誰もが、昨夜の出来事を知っているような気がして、アオイの心はざわついた。
その日の放課後。下駄箱で靴を履き替えようとしたとき、小さな封筒がアオイのローファーに押し込まれているのを見つけた。
(……なにこれ)
手紙を取り出し、そっと開く。
> 《君は“本当の空”を見た。私たちは味方だ。心配しないで。》
震える指先。
アオイは周囲を見回す。誰も、見ていないように見える。でも——この手紙、誰が? どうして?
味方? 本当に? これは……罠かもしれない。
(でも、もしほんとに味方なら……)
心が千々に乱れる。信じたい、でも信じられない。昨日から何もかもが、急に歪んでしまったようだった。
疑心暗鬼がアオイを覆っていく。
帰り道すら、足取りは重い。行き交う人の目が、皆どこかで彼女を見張っているように感じる。すれ違った女性がふと振り返った——ような気がして、アオイは思わず立ち止まる。
(お願い、普通でいて。誰も私を見ないで)
だが、心のどこかで、もう知ってしまったことから目を背けられない自分もいるのだった。