第十二章:仮面の微笑
その日の放課後。
アオイは、あえて帰る時間をずらした。
人の気配が薄れていく校舎で、静かに教室を出る。
今日だけは、誰にもついてきてほしくなかった。
けれど——
「……アオイさん?」
背後から聞こえた声に、思わず足が止まる。
振り向くと、そこにはミナがいた。
微笑んでいる。いつものように、穏やかに。
けれどその目には、感情の色がまるでなかった。
「どうしたの? 一人で帰るの、珍しいね」
「……ミナこそ、まだいたんだ」
「うん。ちょっと先生と話してて……でも変だね。出席簿には、私の名前がなかったんだって」
軽く笑うミナ。
その声に、背筋がぞくりとする。
「なんで……そんなこと、笑えるの?」
ミナの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
けれどすぐに、元の仮面を貼り付けたような微笑みに戻る。
「ねえアオイさん、薬、飲まなかったでしょう?」
その言葉に、アオイの呼吸が止まる。
なぜ、知っているのか。
なぜ、そんなふうに——。
「……あなたが、あの手紙を?」
「うん」
ミナはうなずいた。
「記憶ってね、とても簡単に書き換えられるの。でも、完全には消せない。だから、あなたの中に残った“違和感”が……きっと、あなたを守ってる」
「……何から守るの?」
ミナはその問いに答えなかった。
ただ、ふいに顔を近づけて囁く。
「この世界は、静かで、整っていて、とてもよくできてる。でもね、本当にそれが幸せなのかな?」
言い終えると、ミナはその場を離れた。
夕暮れの光の中へ、ふっと溶けるように。
アオイは立ち尽くしたまま、自分の胸の鼓動だけを聞いていた。
言葉の一つ一つが、脳の奥に残響のようにこだまする。
そして気づく。
——私はこの世界に、何か大きな嘘を見ている。
——その中心に、ミナがいる。
どこかで、ドアが閉まる音がした。
それは、これまでの日常との境界が閉ざされた合図のように感じられた。