第十章:風の通る声
放課後。アオイはヒロと一緒に、保健センターへと向かって歩いていた。
言葉はなかった。ただ靴音だけが、互いの存在を示すように響いていた。
学校からセンターまでの道のりが、今日はまるで終わらない廊下のように感じられた。
センターの自動ドアの前には、黒いスーツを着た男が立っていた。
四十代後半。きっちりと整えられた髪、感情のない無表情。
胸元には、小さな銀のピンバッジがひっそりと光っていた。だがなぜか、視線がそこに吸い寄せられる。
「ナギサ・アオイさんですね。案内します」
男の声は、冷たいのではなく、まるで機械が発するような無機質さだった。
「……はい」
アオイが答えると、男は無言のままセンターの中へ歩き出す。
ヒロが続こうとすると、男はわずかに振り返った。
「君は、ここで待っていてくれるかな。すぐ終わるから」
「……え? でも俺——」
ヒロが口を開いた瞬間、男の視線が鋭く彼を射抜いた。
「問題ない。ほんの確認だよ。ね?」
その一言に、拒む空気はなかった。
ヒロは眉をひそめながらも、バッジの意味する立場を理解していた。
「……わかりました。ここで待ってます」
そう言って、ベンチに腰を下ろす。
アオイは不安を胸に抱きながら、静かにセンターの中へと姿を消した。
———
検査室の中は、白で満ちていた。
壁も床も、天井も。脈動するように静かな光を放つモニターだけが、そこに“意思”のようなものを感じさせた。
男が扉を閉めると、低く言った。
「すぐに終わるから、怖がることはないよ」
その言葉のあと、別のスタッフが無言で現れ、アオイの名札を外す。
瞳がスキャンされ、次いで、頭部に装着されたセンサーが淡く光を放った。
“認知パターンスキャン”。記録データへのアクセスのための手順。
そのとき——
脳の奥がかすかに疼いた。視界がじりじりと揺れる。
> ……違う、これじゃない……こんなの、知らない……
また、あの声だった。
風の中をすり抜けるような、遠い誰かの囁き。けれど確かに、内側に響く。
だが、検査はわずか数分で終わった。
「はい、お疲れさま」
男が言った。
「特に問題はなかった。システム上の軽微なエラーだね。明日からは普段どおりに過ごしてくれていいよ」
「……本当に?」
アオイは思わず聞き返した。あの声も、あの痛みも、何もなかったはずがない。
男は微笑まず、ただ事務的に答えた。
「うん。よくあることだ」
それだけだった。
———
帰り道、アオイはヒロと並んで歩いていた。
「どうだった?」と聞かれたが、「何もなかった」とだけ返した。
それ以上は言えなかった。いや、言う気になれなかった。
ヒロの隣を歩いているはずなのに、その存在がどこか遠く感じられる。
ヒロの気配が、まるで空白のように、手の届かない場所にあった。
———
その夜、ヒロの端末に通知が届いた。
【対象:ナギサ・アオイ】
【警戒レベル 2 → 4 に引き上げ】
【継続観察・接触許可範囲維持】
ヒロはその表示をしばらく見つめ、息を吐いた。
(……どういうことだよ。何もなかったって、言ってたくせに)
モニターの光だけが、彼の顔を静かに照らしていた。
———
翌朝。アオイの机の中に、小さな紙片が入っていた。
見慣れた文字が、そこにあった。
> 『昨日もらった薬、絶対に飲まないで。飲んだら――あの日の記憶が、消される』
紙片の隅には、小さくこう書かれていた。
《ミナ》
その名前を見た瞬間、胸の奥に何かが触れた気がした。
かすかに、何かを“思い出しそうな”感覚が波打つ。
風が、教室の窓から静かに吹き込んできた。
その風の中に、誰かの声のようなものが、微かに混ざっていた。