第九章:ズレ始めた世界
朝のホームルームが終わり、移動教室へ向かおうとしたアオイは、担任に呼び止められた。
「アオイ・ナギサさん、放課後に保健センターで検査があります。直接、案内があると思いますが、忘れずに」
先生の声は低く、他の生徒には聞こえないように配慮されていた。
「……はい」
アオイは、小さくうなずいた。
授業中も頭がぼんやりしていた。黒板の文字も、先生の声も、どこか遠くに感じる。
給食の時間。周囲は普通にしゃべっているのに、どこか話題の輪に入れない気がした。 ナツキも、リオも。目が合いそうになると、なぜかすぐに逸らされる。 (気のせい……? それとも……) 誰にも聞かれていないはずの“検査”が、なぜか周囲に伝わっているような——そんな錯覚が、アオイの胸をざわつかせていた。
午後の授業が終わり、アオイは一人で昇降口へと向かった。
下駄箱の前で靴を履き替えようとしたとき、不意に名前を呼ばれる。
「アオイ」
振り向くと、ヒロが立っていた。
「……なに?」
「今日、保健センターで検査だろ?」
一瞬、背筋が凍った。
(なんでそれを——先生は小声だったのに……)
ヒロは、いつものように軽く笑って見せた。
「たまたま、廊下で聞こえただけだよ。なんか、タイミング良かったみたいで」
笑顔は自然だった。でも、その“自然さ”が、逆に不自然だった。
「……そうなんだ」
アオイは靴を履き替え、そっと距離を取る。
「俺の家、センターの近くなんだ。よかったら、一緒に行く?」
一瞬、考える。 (ミナのことも、音声のことも、誰にも話してない。話せるわけがない) でも—— ヒロの言葉には、どこか“踏み込みすぎていない優しさ”があった。 それがかえって、アオイの警戒心をくすぐった。
「……いいよ。一緒に行こう」
その返事は、自分でも意外だった。
ヒロと並んで歩き出す。会話はあまり弾まない。
(この人……何を知ってるの? それとも、何も知らないの?)
ヒロはアオイの顔を見ず、ただ前を向いて歩いている。 その横顔は、どこか無表情で、静かだった。
(でも……もし、ヒロが“味方”じゃなかったら——) そう思った瞬間、足がほんのわずかにすくんだ。
気づかないふりをして、歩き続ける。
頭の奥で、音声の残響がまた、ノイズのように揺れた。
> ……そら、ちがう…… ……あおく、ない……
空は今日も、きちんと青かった。 それが一層、嘘に思えた。