第六章:祖母の手記
夜。家の明かりはすっかり落ち、アオイの部屋だけがぽつんと灯っていた。
祖父母の部屋にある古い棚。 何かを探していたわけではない。ただ、ふと、ドアを開けてその空気を吸いたくなった。
アオイは、棚の前にしゃがみ込む。
小さい頃、祖母の隣でよく絵を描いていた思い出がある。 祖母はときどき、窓の外を見ながら、「今日は空が薄くてやさしい色ね」とか、「夕焼けが泣いてるみたい」と言った。
その言葉の意味はよく分からなかったけれど、優しくて、どこか懐かしい音だった。
棚の下の引き出し。
——“この引き出しには触っちゃダメよ”
母の言葉を思い出す。鍵はついていない。でも、子どもだった自分はその言葉を素直に守った。
だけど、今は違う。
胸の奥に、見えない手でそっと押されたような衝動があった。
ゆっくりと手を伸ばし、引き出しを開ける。
中には、古びたノートや布、手紙の束が詰まっていた。 その一番奥——ひときわ丁寧に包まれた、薄い革の手帳。
祖母のものだと、すぐにわかった。
表紙の端に、小さく名前が書かれている。日付は、三十年以上前。 ページをめくると、丁寧で柔らかい祖母の文字が並んでいた。
『空って、青だけじゃないって、昔は誰もが知っていた気がする。けれど今では、それを声に出す人がいなくなった。いつの間にか、見えるはずの色が、見えなくなっている気がするの。』
『“色”ってね、昔はもっと自由だったと思うの。心で感じて、言葉にして、共有して。それが今は、どこか決められたように思えてしまうの。目に見えるものと心の距離が、少しずつ遠のいている気がして。』
アオイの目の奥が、じんわりと熱くなった。
祖母もまた、「違う空」を見ていた。
ページを閉じたあとも、アオイはしばらく祖母の部屋に座り込んでいた。 手帳の重みがまだ両手に残っている気がして、なかなか立ち上がれなかった。
感じたこと。 見えた空。 そして、祖母が残した言葉。
それらが全部、静かに、でも確かに、自分の中で何かを動かしていた。
(……あの空を、見たことがある気がする)
その感覚は、どこか懐かしくて、でも輪郭はぼやけていて。
まるで、心の底のほうに眠っていた何かが、ゆっくりと目を覚ましはじめたようだった。
(私の中にも、ずっと前から何か“違和感”があったんだ) そしてそれを、“誰かと違うこと”としてではなく、「自分だけの当たり前」として大切にしていた。
ページを閉じてからも、アオイの頭はずっとざわざわしていた。 眠ろうとしても、まぶたの裏にあの手書きの文字が浮かんでくる。
(おばあちゃん……どうしてこんなこと、残してたんだろう)
(私と同じこと、感じてたのかな……)
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朝。 食卓に湯気の立つお味噌汁と、母のいつも通りの紅茶の香り。 淡々とした朝の静けさの中で、アオイは口を開いた。
「ねえ、お母さん。……おばあちゃんって、どんな人だった?」
母の手が一瞬だけ止まる。
「急にどうしたの?」
「なんとなく。昨日、夢に出てきたの。空の話をしてた」
母は少し黙って、紅茶を一口飲む。
「そうね。……変わった人だったわ。空の色や、風の向きとか、そういうことをよく気にする人だった。いつも“同じに見えても、人によって違う”って言ってた」
アオイの胸が、じわっと熱くなった。
「そういうの……変だったの?」
「……昔はね、あまりそういう話を大っぴらにするのは、良くないってされてた時期があったの。制度も厳しかったし」
「制度?」
母は何かを飲み込むように黙り、目をそらした。
「……ああいう話は、曖昧で誤解を生みやすいの。だから、あまり深入りしないほうがいい」
それは優しさというより、警告のように聞こえた。
アオイはそれ以上、何も聞かなかった。
けれど——
(おばあちゃんだけじゃない。お母さんも、何かを知ってる)
そう感じてしまった自分がいた。
ふと、アオイはもうひとつ聞いてみたくなった。
「……ねえ、お父さんって、どんな人だったの?」
母は驚いたようにアオイを見た。
「どうしたの、そんなこと」
「なんか、思い出してみたくなって」
母はしばらく黙っていた。
「……そうね。あなたのお父さんは、自分の目で見たものを疑わなかった人だった。強くて、真っ直ぐで……でも、そういう人って、生きづらいのよ」
その言葉は、どこか痛みをはらんでいた。
アオイはそれ以上何も言わず、食器を片付けた。
(逃げてばかりじゃいけない気がする)
(もう一度……ミナに、会いたい)