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反証

「まず君について事実を述べよう。君は日本人だ」


「……だからなんですか?」


「日本のパスポートは現時点で百以上の国にビザなしで入国できる。まずは認めてほしい。君たちはこんなにも広い世界から来てもいい、生きてもいいと思われていることを」


 ほんの少しだけ、何かを越えたのだろうか。閉じ込められていた自分が、柵を跨いだような気がした。


「でも私は日本から出るつもり、現時点でありませんよ」


「僕が言いたかったのは、まず視野を広げてほしいということ。そして、これから語る僕の実体験への導入だよ」


「実体験?」


「アジアのとある国に渡航した三日目、突然誘拐されたことがあるんだ」


「!!」


「運良く逃げ出せたものの、携帯も財布も奪われた。現在地も掴めない」


「まったく外国から歓迎されてないじゃん……」


「日本でも拉致事件はあるよ。闇バイトとか特殊詐欺とかね」


「それは……そうですけど」


 件数は桁違いだろうが、国内でもあり得ない話ではない。どこかの片隅である日突然、そのような悪夢が訪れる危険性はあるんだろう。


「気づいたら荒野にいて、見かけるのは野良犬くらい。もう終わりだと思ったね」


 何も言えなくなってしまった。この時ばかりはこんな人でも可哀想だと感じたから。


「そのとき僕は人間関係で絶望して、無気力だった。そこに更なる追い打ち。死んだほうが楽なんじゃないかと考えた」


 この先生にもそんな時期があったらしい。胸の奥に更なる悲しみが広がっていくのを感じた。


「乾いた土の上で寝っ転がってると、どこからか夫婦が娘と息子を連れて歩いてきたんだ。笑顔で話しかけて、食べ物をくれた」


「よかったじゃないですか」


「渡されたのは歯型のついたパンクズで、笑えなかったよ。何もかもどうでもよかったけど」


「そんな……」


「でも実は……その人たちにとって、残飯はご馳走だったんだ」


「え?」


「その後ついてこいって言われてさ。行ったら酷い有様だったよ。ゴミ山近くに穴だらけのトタンの家と小さい鶏小屋があるだけ」


「……」


「そこで飲み水や寝床を提供してもらったんだ。また明日ねって。信じられるかい? 自分たちが明日無事でいられる保証なんてないのに」


 伏し目がちに、首を振った。


「その家族にはおそらく大したスキルはないだろう。けれど、そんなのどうだっていいんだ。僕にとっては彼らこそが特別で、全てだったんだ。どんな苦境も乗り越え、また歩き出したいと感じる何かがそこにはあった」


 目頭がじんと熱くなるのを感じた。枯れ地のような心の中に、ふと、小さな何かが芽吹いた気がした。


「五日くんは……みんなは僕みたいにどこかで倒れている人を見かけたらどうする?」


「た、助けますよ!」


 周りを見渡すと、他の人たちも静かにうなずいていた。私以外は言葉を発しなかったけど、日本にはまだまだ、お人よしが残っているようだ。


「ならば君たちは誇りだ。僕にとって、世界にとって」


 堪えきれず、目が潤んだ。涙まではこぼれなかったけれど、それを抑え込もうとしているのは、誰の目にも明らかだったかもしれない。


「世の中にはいるんだ。他人を犠牲にすることに何の疑問も持たない人が。僕はそんな人たちを、宝物だとは感じない」


 先生はゆっくりと息を吸い、言葉を続けた。どこか決意のようなものを帯びていた。


「だが君は……君たちは他人の幸福を願い、誰かを助けたいと望み続けられる。それならきっと特別になれる。いや、もう既に僕にとっては特別な人なんだ」


「……本当に特別なのでしょうか。私はおそらく並以下の人材になる気がします」


「世間に必要とされないのなら、自信を無価値だと疑う。逆に言えばそれは、君が優しい優しい人間であることの証明なんだ。それだけで胸を張って生きていていいんだよ」


「でも自信がないんです。私よりすごい人なんて大勢いるから」


 絞り出すように声を出した。子どもが駄々をこねるような、掠れた涙声になってしまった。


「すごいの定義はなんなんだ? いくら稼げば偉大なんだ? 何回いいねを押してもらえれば立派なんだ? そんなもの0でも、僕は君たちと会える明日を何よりも心待ちにしているんだ」


 先生の声は、静かに、しかし確かな熱を帯びていた。じんわりと火を灯すような熱が。


「他の人にとって、君がいることは不幸なことなのか? 君は大切な人たちに安らぎさえ与えられない人物なのか?」


「それだけは違います! 絶対に!」


 涙が溢れ出してしまった。すでに赤く染まっていた目の下は、さらに深く紅くなり、雫は頬を濡らしていく。


「私は……誰かの明日を照らすために生きられるんでしょうか?」


「当たり前だろう。だって君は特別なんだから」


 一瞬の躊躇もなく答え、真顔で見つめる先生。不意にそんな顔をされると、心の準備ができていなかったから、余計に震えてしまう。


「他の誰が何と言おうと関係ないんだよ。僕が今日まで、これからも誰にも傷ついてほしくないと願う君たちを、かけがえのない人間だと断定するんだよ。他人の意見なんか知ったこっちゃない」


 軽薄に振る舞っていた先生の姿は、一体どこにいってしまったんだろう。


「アドラー曰く、すべての悩みは対人関係に起因するらしい。それなら、僕が君たちを肯定し続けよう。そして苦しい時に思い出せ、僕が君たちを待っているのだと」


 頼むから真剣な目で見ないでほしい。真面目な人じゃなかったはずなのに。


「僕がいなくなったら終わり? そんなこと考えなくていいんだよ。この命が尽き果てようとも、意志は決して消えないんだ」


 錆びついて役目を終えたはずの古い歯車が、胸の内で再び回り出してしまう。


「誰か反証を挙げてみなよ。やれるもんならやってみろ。無理なんだよ、これは僕だけの世界なんだから」

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