転換
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ーー近頃は自分に大した存在意義なんてないと思っている。幼少期は、ただ息をしているだけでいいと信じられた。周囲の人が飽きるほど可愛がってくれたから。
ーーだけど年を重ねるごとに「勉強しなさい」「努力しなさい」「ちゃんとしなさい」と叱られるようになった。迷惑をかける人間は、相手にされないと。
ーーその教えは悪いことじゃないと思う。大人になってまで、他人に過度に甘えるのは違う。でも今は、その思想が強すぎると感じる。
ーー成果を出せない人間の居場所なんてないと。罪のない誰かを殺めてしまうほどに。
ーー能力が低くとも、食事や住む場所の質が落ちるだけで済むはず。どうして「消えてしまえ」なんて発想にまで至るんだろう?
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「さて……君が、君たちが自分を特別だと思えなくなってしまったのはどうしてなんだろうね。周囲の大人がどんどん自信を奪っていったのかな?」
「あなたみたいな失礼な人に教えたくないです」
「じゃあいつ吐き出すんだい? このまま蟠りを抱えて生きていくのかい?」
冷たいものが背筋を這い上がるような感覚に襲われた。この人の言うとおり、永遠に名もない病に蝕まれ続ける。そんな確信めいた予感が、頭から離れなかった。
「言っちゃいなよ。僕が嫌いなら二度と授業に出なければいいんだ。哲学は必修じゃないだろ?」
胸の奥で何かがはじけた。心の奥に押し込んでいた火薬が、爆発するかのように。
「……よく覚えている出来事があります」
ーー五日って調子乗ってるよね。大したことないくせに。
ーーそれは高校生のとき。同級生がそんなことを言ったのを耳にしてしまった。
「大人になんと言われても、内心は反抗できていたんです。でも、同じクラスの子から言われて何かが折れてしまったんです」
ーーそれ以来、私は人前に出ることが嫌になった。個性を持つことが、怖くなった。
「私は目立つために飛び出したんじゃない。私が頑張れば、他の人も頑張れると思ったから。私が挑戦すれば、みんなも戦えると思ったからなのに」
悔しさに歯を噛み締め、瞳が湿り気を帯びてきた。大学生活が始まってまだ一ヶ月未満。この場所で大した歴史もないのに、私は一体何をしているんだろう。
「人との繋がりや思い出を重視する君にとって、同じ境遇の仲間からの拒絶は何よりも苦しかったわけだ」
「……」
「でも君がいたクラスの人数ってせいぜい数十人だろ? 全人口からみたら、何億分の一以下、無に等しい」
「だから! どうしてそう機械みたいな判断しかできないんですか?」
「早まるなよ。無意味って主張したいわけじゃない」
あんたの言い方が悪いんだろと言いたくなったが諦めた。この人には何を言っても無駄だ。
「むしろ安心したんだ。ごく僅かな賛同で十分だってことに。発想を転換できる」
「どういうことですか?」
「それなら僕が君を、君たちの価値を認め続ければいい。他の誰が何と言おうと」
「はい?」
あまりにもキャラが変わりすぎて、耳を疑った。そんな情熱的な生物ではなかったはずなのに。
「でもさっき君が言ったことと矛盾してるよね。困ったことに僕と君は今日会ったばかりで、何も掘り起こせるものはない」
当然だ。この人はただの失礼な男という印象しかないし、なんの信頼もない。っていうかもうぶっちゃけ嫌いなタイプ。
「だが思い出は後付けでいいんじゃないか? 君を無二であると信じ、存在を肯定するという目的のためならば、そんなものすぐには不要なんじゃないか?」
「……」
伝えたいことは分からないでもないけど、やっぱりこの人無理。根っこから考え方が違う。
「それに、僕には愛がある。確かな愛情によって、君たちがかけがえのない大切な存在だと示そう。君たちが自信を失っても、僕が支持し続けよう。我思う、ゆえに君ありだ」
「信じられません。初対面の人間に愛があると言われても。気持ち悪い」
「そうだね。だが、共に過ごした日々が皆無でもなんとかしてみせよう。それこそ今日まで僕が学び、生き続けてきた理由だから」
教室の窓から吹き込んだ風が、私の長くない髪を激しく揺らした。あらゆるものの輪郭が、わずかに歪んで見えはじめた気がした。