命題
私はとある大学に通い始めた十八歳、五日 光だ。割と一生懸命勉強したが、残念ながら第一志望には落ちた。その結果、滑り止めで入った大学で新生活を迎えている。
どこにでもいるような女子大生、それが私。丸い顔に、茶色のボブヘア。「これが流行ってる」と薦められたものを取り入れてきた。目立たず、波風立てず。
「哲学、か……」
単位取得のためだけに選んだ哲学の授業。友達とは時間割が合わず、一人で教室に足を運ぶことになった。
「あそこに立っているのが先生?」
教団に立っていたのはなんというかこう、覇気を感じない先生だった。背は高めで体型はガリガリ。
無難な短髪と薄い顔。 青いシャツに黒いスラックスという、明日には忘れてしまいそうな味気のない外見だ。
「玉庭 登満留。これが僕の名前らしい。よろしく」
しばらくすると、先生が話し出した。名前らしいってこの人ふざけているのかと思った。名は最初から定められているものとはいえ、文字の並びがまるでペンネーム。本名かどうかも疑わしい。
「では今日の授業のテーマを発表しよう」
先生は教室の大きな黒板に文字を書き出した。手にはどこか懐かしい白いチョークを持ち、黒板に文字を走らせる。粉が舞い、コンコンという乾いた音が教室に響く。
「君たちが特別ではないことの証明はできない。二重否定で君たちは特別だってこと」
奇妙な文が現れた瞬間、教室の空気が変わった。学生の視線が一箇所に釘付けになる。こんなことを言う教師には、誰も出会ったことがなかったから。
「やっぱりここは日本だな、静かすぎる。ある国だと『なぜ当たり前のことを言ってるんだ』ってヤジとか紙屑が飛んでくるんだけど」
先生は冗談めかしてボクシングのガードのポーズを取る。内心ちょっとだけ笑ってしまった。
「そもそも、この中で自分は特別だと思ってる人っている? ありのままで素晴らしい存在だと確信してる? 全員そうなら違うテーマの授業をするけど」
問いかけに教室は静まり返った。 誰一人として返事を返さず、反応を示さない。まるで倉庫内のマネキンのようだった。
「君は?」
一人の男子大学生が視線を向けられるも、首を横に振る。
「なら君は?」
次はロングの髪型の女子大生だった。彼女は困惑し、「どうでしょうかねー」と呟くと、明後日の方向を向いた。
「いなさそうだね」
先生は教室内を見回して、「良くも悪くも予想通りだな」と一言つぶやいた。
「ふむ、それなら誰かと議論しよう」
教室内を徘徊する先生。静かな空間に、コツコツと硬い音が鳴り響く。空気がわずかに震えるような気がした。
「今回の被害者は……君だ」
やがて先生は私の前に立ち止まり、そう言い放った。私は息を呑んだ。
「じゃあ五日くん、よろしくね」
「え? なんで私の名前を知ってるんですか?」
「その服最近クリーニング出したの? お客さん用の名札が貼りっぱなしだよ」
私は顔を真っ赤にしながら名札を引き剥がし、ポケットに入れた。恥をかいたけど、おかげで緊張は多少和らいだ。
「君は自分が特別だと感じる?」
見た目はパッとしない人。だけれど、その目の色は今まで出会った誰よりも濃く、合わせた視線を逸らすことはできなかった。
「私は……別に自分が特別だとは信じていません」
「それはなぜ?」
「なぜなら自分より秀でた人が沢山いるからです。容姿にしろ、学力にしろ、何にしろ」
「そうだね。比較しちゃうと、どうしても自分より上の人がいるよね。めっちゃ分かるよ」
何度か頷く先生。その動作はまるで自分の記憶を噛み締めるかのようだった。私は「鶏みたいだな」と感じて、力が抜けた。
「他のみんなも同じかな?」
あちこちで生徒たちが黙って頷いた。自分が孤立していないことにほっとした。
「でも、なんで他人と比べるの?」
「それは……」
「世の中に洗脳されてきたからだよね。他より優れてないと無価値だと」
「洗脳って……」
「例えば君がすっごい高い能力を持っていて、お偉いさんになって、タワーマンションの高層階から雑踏を見下ろしたとしよう。そのとき君は心の底から自分を誇りに感じられるのかな?」
「……」
何も答えられなかったけど、おそらく他人を見下しても大して幸せにはなれないと理解していた。
この世には理不尽な目に合っている可哀想な人が大勢いて、私は既にその人たちよりいい暮らしができていると知っている。だからといって、私が満ち足りた気持ちになることはなかったから。
「話は変わるけど、君には大切な友達とか家族がいる?」
「それはまあ……」
「そのうちの誰かが死んだら、新しい人間をどこかで拾ってこればいいかな? 赤ちゃんポストとかで」
「な!?」
激昂に駆られ、拳を握りしめた。こんなに失礼なことを言う教師がこの世にいるのかと。
「なんてことを言うんですか! 代わりになるわけないでしょう!」
「とてつもなく優秀な子供だったとしても? 君の知人の誰よりも秀でた人間になるとしても?」
「いい加減にしてください! あなたには心がないんですか!?」
「ということは君にとって大切な人の代わりになる人間はいないってことだね。どれだけ優れていても」
「当たり前です!!」
通報してやろうかと考えた。SNSにこの人の発言を投稿してやるのもいいかもしれない。
「その人たちは特別ってことだよね? 能力的に他者より劣っていても」
「特別に決まってるでしょうが!」
「ならば反例が出来上がったね」
「反例って……あなた本当に……」
「人間をなんだと思っているんだ」と怒りの表情を出したけど、目の前の男は微動だにしない。
「でもどうしてだろうね? 教えてくれる?」
「この……」
あまりのデリカシーのなさに、はらわたが煮えくり返る。しかし呼吸を整えて、なんとかその衝動を抑え込む。
「積み重ねた思い出や愛情があるからです! 何にも変えられない!」
「なるほど。人を本当に特別にするものは、偏差値やフォロワー数じゃないのかもね。少なくとも君にとっては」
「!!」
「とすれば君はさっきまで能力に拘っていたけど、本当はそんなものいらないんじゃないか?」
言われてハッと気がついた。最近は社会的な価値が全てだという考えに捉われていたが、その固定観念に強い疑問を投げかけられた。
「ちなみに君が挙げてくれた要素は努力すれば再現できる? 共通テストみたいに?」
「無理に決まってるでしょ!」
「愛情は実際のところパラメータみたいなものかもしれないよ。ゲームみたいに挨拶したらプラス1になるとか。それだと模倣できるんじゃない?」
「そんなに単純なわけないでしょ! 人間それぞれ個性があり、個々の思い出や繋がりがあるんです! 真似できるもんか!」
喉の奥が焼けるように痛む。さっきから叫んでばかりだ。こんなに騒いで人が集まってくるんじゃないか。
「ふむ。一旦ここまでの話を整理しよう」
先生は黒板が設置してある場所に戻り、静かにチョークを走らせた。「大切な人との間には愛情や思い出など、再現できない繋がりがある。それゆえに特別」と。
「確認だけど、この意見に間違いはないかい?」
先生は再びゆっくりと歩みを進め、私の席のすぐそばまでやって来た。
「ないです!」
私は膨れっ面で答えた。この答えだけは譲れないと。
「では次は君の番だ」
場の空気が突如として変わった。先ほどまでの雰囲気は消え失せ、まるで深い海へと引きずり込まれるような感覚に襲われた。
「君はかけがえのないの人物なのか。今吐き出したものを使って、証明しなければならない。それが命題だ」
逃げだしたくなった。目の前の人物が不気味であることもさることながら、これから始まるであろう質疑応答に耐えられる自信がなかったから。でも、足は鉛のように重たく、動けなかった。
「目を逸らしてはいけないんだ、五日くん。これは君が、君たちが特別であるための授業だ。今までも、これからも」