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きちんとした運動靴を履いてたらもっとマシだったのかなって後悔したのは、最初の一分くらい。実際はそれどころじゃなかった。
線路を走ってる途中で急に崩れ始めた天候。分厚い雲が太陽を遮り、霧まで立ち込めてきた。どうなってんのこれ、特異点が近いせい? でも量子崩壊がこんな現象まで引き起こすなんて、ネットのデマでも聞いたことない。
線路から駅ホーム3番4番線に上がる階段までたどり着いてぜーはーしてたら、いきなりの銃声に鼓膜をぶん殴られた。それも目の前からだ。
心臓が破裂したかと思った。咄嗟に階段に伏せて、息を押し殺しながらホーム上をのぞく。様子見なんかせず回れ右しとくべきだったのに。
ホーム上の黄色い点字ブロックが視界に入って、そのすぐ先にいた。怪物が。
……えっ、怪物!?
現実的にあり得ない造形の何かが、ホーム中央を占拠していたんだ。
くだんの怪物は、最初は蜘蛛のような姿形だと思った。ただ蜘蛛というには無機質な姿で、サイエンス誌で読んだバクテリオファージってウィルスにも似てる。
しかも大きい。胴体を支えてる多脚の一節だけでも、ホーム備え付けの自販機と同じくらいの高さだ。
よくよく観察してみれば、怪物自体が青く光ってる。回路図みたいな血管が光の流路になって、表面にせめぎ合う幾何学パターンはさながら象形文字を思わせる。それに輪郭がちょっと透けていて、実体のないホログラムみたい。
未知の生物なのか、それとももっと別な概念なのか。とにかくその怪物は、印象が定まらない謎の存在としか説明しようがなかった。
なんて動揺しているうちに、怪物が脚部を動かして一歩前進した。ホーム中央に並ぶベンチを乗り越えようと前脚をかける。と、爪の生えた脚のせいか自重の関係なのか、樹脂製のベンチをバキバキと破壊してしまった。
そしてその怪物が進行する先――ベンチの向こう側に、なんと人影があった。
ちょうど僕の方を向いていた人影は、あの恩人の彼だった。二挺拳銃を構えて、前方の怪物と対峙している。あの人、まさかあれと戦っているっていうの!?
早鐘のように突っ走ってた心臓のビートに急ブレーキがかかった。風景はよく見知ったもののはずなのに、あまりに現実離れしたこの光景。それに物音を立てたら喰い殺されそうな恐怖感に襲われて、思わず息を殺した。
「――――なっ、おまえっ!?」
なに大声出してんの! しかもこの人、どう考えてもこっちガン見してるし!
「おまえ、さっきの! なんで一般人がイ界まで来てんだよ!」
「い、異界……って、何がさ! 勝手に飛び出してくから心配になっただけだし!」
張り合ってる場合じゃなかったのに。
声に反応した怪物の胴体が急に持ち上がって、こっちにぐるんと転回、脚が方向転換。こっちを獲物と認識したとしか思えない。
「くそっ、ファンタズマが――――」
舌打ちする彼を無視して、怪物がこっち目がけて襲いかかってきた。何本もの脚を使って走って――というよりか、蜘蛛のくせに半分ぴょこぴょこと飛び跳ねながら。
「うわあっ」
足がすくんでしまい、僕はその場に伏せて頭を抱えるしかできなかった。
恩人のひとが引き金を引いた。
二挺拳銃は両者違ったデザインをしていて、銃身が奇妙に短かった。銃そのものが異様にコンパクトサイズだ。そんなのでどうやって弾丸を発射できるのかわからないほど。
到底実弾とは思えない銃声とマズルフラッシュが二重に弾けた。怪物のすぐそばの地面に着弾して、まるで魔法円みたいな幾何学模様を描く。
衝撃波で怪物の胴体が持ち上がり、ダメージを受けた脚をもつれさせて横転する。
彼が左手の銃を鮮やかに翻す。次いで射止めるように右手を前方に構え、二射目。今度のは実弾っぽい大仰な銃声を轟かせた直後、閃光とともに怪物の脆そうな腹部が破裂した。
「なに……これ……」
その怪物はホログラムの身体を解れさせ、すぐに光りの粒子と化して霧散してしまった。
「……なんなの……いきなり怪物とか……銃とか……なんなんだよこれって――――」
思考が正常に回らない。動けない。指とか足の先とかが戦慄に震えてる。たちの悪い夢じゃなければ、僕は妄想でも見てるっていうのか。
「いいから立てよ一般人っ!」
低く凄んだ声で怒鳴りつけられたせいで、心臓が跳ね上がって。
だからじゃないけど、僕は慌ててホームまで這い上がる。腰に力が入らない。
「今すぐ改札口の方まで走れ。全力だ。何があっても振り返んな。トイレの個室に逃げ込んでドア閉めとけ。俺がいいっつうまで絶対そこで動くな、死にたくなけりゃ」
死ぬ、って? 腰砕けな僕を、彼が切れ長の瞳で見据える。強靭な意志に捉えられる。
拳銃を握ったまま手で乱暴に肩を掴まれて、僕は無理やりに立ち上がらせられてしまった。振り返ろうとしても、背中をどんと突かれる。
「行けっ!」
置かれた状況も理解できなければ、呼吸を整えることすらままならなかったのに。
頭の中が真っ白のまま、言うことを聞かない足を奮い立たせて駆けだした。