10
これがただの悪夢で終わってほしいと願ったからか、僕の意識は再び現実へと揺り戻された。
でも目覚めたあとも悪夢だった。僕の顔面を、誰かのデカい手が掴んでいたのだから。
呻き声すら出せない。全身が金縛りみたいに硬直して、相手にされるがまま。
と、こっちが目覚めたのに気付いたのか、デカい手が僕を脳天ごと突き放した。
「――チッ、逃げちまいやがったか。もう少しで娘の尻尾くらい掴めたのになあ」
僕を掴んでいた男が心底残念がった。でもこいつ、どこかで見たような……。
起き抜けで思考が回らない。結構なスピードで窓ガラスの向こう側を流れる景色。
どうやらここは車の後部座席らしい。寝ぼけていた神経が咄嗟に奮い立ち、後ずさってドアに背を預ける。
自分の両手首がガムテープでぐるぐる巻きだ。そうか、僕はあのとき逃げ切れず、こいつに捕まっちゃったのか。
隣で尊大に腰かけている男。こいつはあのときいたスーツ姿の奴だろう。
藍色のスーツに群青のシャツまで全身青で統一した、長身痩躯の優男。見たところ二十代くらいで、金髪ロン毛に香水の強烈なにおい、じゃらじゃらしたアクセサリー類という出で立ちがホスト業か何かを連想させる。
けれどもサングラスの隙間からふと覗いた碧眼が、彫りの深い顔立ちと相まってその偏見を途端に変容させてしまう。こいつも異国からの来訪者だ。
「フリーズだ、余計な真似するなよ小僧」
手を広げてみせると、上着の袖から短銃が飛び出してきた。まるで手品を見せつけるみたいに。それが躊躇いなく、僕の額を照準する。
一触即発の状況にもかかわらず、わざとらしく寄せた眉根が、これは冗談だと物語ってくる。だから逆に、この男の慣れきった余裕が油断ならなくて、心拍数が一気に高まった。
「おおっと、オレにこいつを撃たせるなよ。大事なスーツが汚れちまう」
「――クルマもだ」
前方からもうひとりの声が返ってきた。
「…………だとよ。やっぱり小僧は動かない方が得策だ」
僕と対角線上の運転席では、さっきの低く野太い声に似つかわしい巨漢が、窮屈そうに身を縮こめてハンドルを握っていた。この巨漢の方もあの時いた奴だ。
「何か聞きたそうだな小僧? だが質問に答えるのはオレじゃない、貴様の方だ。もっとも、そんなツラじゃ答える口もないがな」
そうおどけてみせる。最初この男が何のことを言っているのかわからなかった。
まだうまく働かない頭で考えるよりも早く、身をもって思い知らされる。
「ん……むぐぐっ――――――」
口までガムテープで塞がれていたんだ。わけもなく息苦しかった理由はこれか。
「そうだ、沈黙は小僧自身のためになる。何事もロジカルに考えような、未来ある若人よ」
こちらがそれ以上抵抗しないと判断してか、男は仕込み銃を袖に収めた。
車外を流れる景色は、どう見ても高速道路のものだ。高い防音フェンスの向こうから突き出た建築群。都市部に入っているのだろうか。
周囲は車で混雑していて、この車もそんなにスピードは出ていない。どこに向かっているのかはわからないけど、どちらにしろここはイ界ではなく現実界だ。
状況整理して、一つ安堵した。見た感じ、七月先輩まで誘拐されたわけじゃなさそうだったから。妖精さんの部屋が燃えちゃったのもただの夢だったみたいだし。
状況的に考えて間違いない。こいつら、例の襲撃犯だ。コンビニでジゼルさんを襲った、女魔術師ばかりを狙うという正体不明の魔術師。蟹ファンタズマの自爆やコンビニ破壊までこいつらの仕業だとしたら、正真正銘のテロリストだ。僕なんかが叶う相手じゃない。
……で、どうして女魔術師じゃなくて男の僕なんかが人質になってんの!?
「いいか小僧。貴様が余計なことをべらべら喋らないよう、小僧そのものに魔女の呪詛が仕込まれてるのは理解してるな。だから口は使うな。イエスかノーで合図するんだ」
こいつはおそらくあの魔女さん――Ⅳのことを言ってるんだ。でも呪いの発動条件には、Ⅳさんへの裏切りも含まれてる。つまりイエスかノーでも裏切りになるんじゃないの?
「よし、なら一つ目の質問だ。貴様は魔女の隠れ家を知っているか? 小僧の主人となった魔女の居場所をオレたちは知りたい。知っているなら首を縦に振るんだ」
知るわけないよ! Ⅳさんとの接触なんてあれっきりだし。ただこの事実をこいつらに教えたところで、彼女を裏切ることにならないかな。
首を横に数度振ってみる。否定と受け止めた男は舌打ちだけ返した。
「二つ目の質問だ。貴様の主人の名を言え。通り名じゃない、真名の方だ」
なんだよその真名って。万が一知ってたとしても、この状態で声に出せるわけないし。
「これは小僧のためにもなる。魔女の真名さえ知れれば、小僧を縛る呪詛も解除できるからな。貴様は主人の支配から解放され、晴れて自由の身だ。悪くない取引だろう?」
わかった。真名というのは、呪いのキスの時にⅣさんが口にした「他人には絶対に明かさない魔女本来の名前」のことを言ってるんだ。
「さあ、この暗号表から数字を選ぶんだ。スペルを知らなくても意味は通じるはずだ」
言いながら男がタブレット型端末を差し出す。
画面に映し出されていたのは、文字が羅列された暗号表だった。四桁の数字を指定すると、対応するアルファベット一文字に置き換わる仕組みのものだ。これがあれば魔女の名を直接声に出さなくて済むと言いたいのか。
――妾に対してよほど酷い裏切り方でもせぬ限り、その呪詛は少年を完全に焼き殺すことはない。
あの人は確かにそう言った。それがもし本当なら、名前をたとえ暗号で伝えたとしても、裏切り行為とみなされるんじゃないのか。
これまでに僕はあの呪詛からどれほどの苦痛と恐怖を味わわされたのか。
かと言って脅されるがままに答えてしまった場合、僕はどうなってしまうのか。どの選択肢をとっても僕の未来は不確かで、不安と恐怖心とで吐き気さえしてきた。
僕をこんな目に合わせているⅣさんに恨みもないわけじゃない。かと言って襲撃犯らしきこいつらに手を貸すことに何の正義も見出せない。まず第一に自分の命が惜しい。
どうにか助かる方法はないか。こいつらを欺く知恵はないか。何かが、何かが、きっと何かが。
そこでしびれを切らしたのか、運転席の巨漢から横やりが入った。
「無駄だ。一度呪詛を受けたその少年に言えるわけがない。魔女の真名を明かすくらいなら自害しかねないぞ」
「自害、だと? ハハッ、冗談きついぜ。こんなカタギの小僧に自ら命を捨てる気概などあるものか」
「下僕自身が死を望まずとも、力ずくでそう仕向けると言っているのだ。かの〈スルールカディアの魔女〉であればやりかねん」
「ほう……それは最高に胸糞悪いな。なら、どうすりゃいい、同志? オレには思いつきもしない秘策がアンタにはあるとでも?」
巨漢の相棒に反論された青い方の男は、声色に苛立ちめいたものを滲ませた。ただ巨漢にも妙案はないらしく、そのまま黙り込んでしまった。
こいつら、Ⅳさんの居場所や秘密の名前を知って、一体何をしでかすつもりなんだろう。
Ⅳさんは留学生ジゼルという仮の顔を持っていて、一度コンビニでこいつらに襲撃を受けていた。でも彼女はまんまと逃げ切ったみたいだから、こいつらはそのリベンジを狙ってるってこと?
そこで、男たちが突然奇妙なことを言い出した。
「どうやら我々は既に追跡されているようだ」
「…………なんだと?」
「少年の呪詛から、魔力が定期的にイ界側へと漏れていた。ただ施術が下手なだけだと誤認させられたが、実態はおそらくは信号だ。少年の呪詛は娘のものじゃない、母親の方の仕業だ」
「……チッ、まんまとハメられたぜ! あのポンコツ魔女、まさか始原魔導器の結界防壁を潜り抜けるためにこの小僧を利用しやがったのか!」
「今はまだこうして高速を逃げ回れるが、すぐ追い付かれる。母親相手に二人では不利だ。その少年を捨てて、我々は一旦態勢を立て直すべきだ」
「冗談じゃない! この小僧は魔女の娘を見つけ出すための唯一の切り札なんだぞ。オレたちがこのさき何人もの魔女を狩り続けなくて済む近道を、このままみすみす見過ごせと」
「だが、我々は失敗した。お前の走査術式ですら、娘の隠れ家を突き止め損ねた」
声そのものは荒らげないまでも、両者の意見は噛みあわず平行線に聞こえた。それに母親とか娘だとか、一体誰のことを指しているんだろう。僕には思い当たる節がないし。
「お前を糾弾するつもりなどない。ただ、まだ年端もいかぬ子どもとはいえ、娘もスルールカディアの魔女だ。二度も同じ手は食わぬ。その少年自身も主の居場所を知らされておらぬとあれば、我々にもはや娘の隠れ家を知る手立てはない」
前席側に身を乗り出しかけていた青い男は、眼光を遮っていたサングラスを畳むと、一旦腰を落ち着け直した。
「だったら、母親の口から直接聞いてやるさ。力尽くでな」
言いながら、内ポケットから薄っぺらい金色の板みたいなスマホを取り出す。何だろう、見たこともない機種だ。男はその表面に数回指先を滑らせて、何かを操作し始めた。
「何をするつもりだ、インディゴよ」
「母親が追ってきているというのなら丁度いい。奴を〈魔女狩り〉に狩らせるだけだ」
男の口から飛び出てきた台詞に、どこか厭な響きのものが含まれていた。
魔女狩り。異端者として弾圧されてきた魔女の悲劇は史実にも記されている。そういう意味で、この男たちが行っている襲撃行為は一種の魔女狩りめいていた。そう思えたのに、いま男が口にした「魔女狩り」がどこか別のニュアンスに聞こえたのはどうしてだろう。
「それは上の計画と違う。独断専行を納得させられると思うか?」
「文句など言わせない、迎える結末が同じになればな。まず母親の方から始原魔導器に取り込んでやる。奴はスルールカディアの眷属でもかつて最強を謳われた魔女だ。今は衰えたとはいえ、飛びきりの贄になる。さて、そうなれば?」
「それを知った娘が母親を助け出そうとする、と?」
「娘も所詮はまだガキだ、さすがにおびき出されるに違いない。そうしてオレたちは感動の親子愛を目撃することになる。ほうら、劇的でロジカルな筋書きじゃないか――――」
大仰に手を広げて主張した。
こいつらが何を企んでいるのか知らないけど、とてつもなくヤバいことを実行に移そうとしてるとしか思えない。魔女狩りで生贄がどうとか、正気じゃない。
そんな連中がこのままおとなしく僕を解放してくれるはずがない。
――だから僕は、残された最後の切り札に賭けることを決めた。
「むぐっ……んん――――ッッ!!」
唐突だけど、ガムテープ越しに唸ってやる。当然、男たちが反応を見せた。
「おい、それは何のつもりだ小僧」
青い方はまた拳銃を突き出してくるかと思っていたけれど、今度は胸ぐらを掴まれた。
首をふるふる振って、あくまで抵抗する意志はないとアピールしておく。同時に、縛られたままの手でズボンのポケットを必死に示してやる。
そこでこいつもようやく理解したらしい。数秒前から、僕のポケットの中でスマホが何度も何度も着信していることに。
状況的に考えて、電話してきたのは七月先輩だろう。ナイスアシストすぎる。
「誰からだ。小僧の主人からか?」
ポケットから僕のスマホを無理やり引っ張り出すと、画面をこっちに突き出してきた。
バイブレーションが止まらないスマホの画面に「七月絵穹」と表示されていた。男は躊躇いなく電話を取ると、通話相手が話し始めるのを無言で待った。
【――――もしもし? 宇佐美くんなの? いま話せる状態……ではなさそうね……】
七月先輩の声色に明らかな緊張の色が見えた。けどよかった、先輩は無事だったみたい。
【いい? あなたたちが何者か知らないけれど、今すぐに宇佐美くんを解放しなさい。さもなければ彼をそこで自爆させるわ】
ちょ――――ちょっとちょっとちょっとそれはやめてっ!!
「おい小僧、なんなんだこのイカレた女は?」
【こっちは本気よ】
回線越しに脅迫してのける彼女。でも肝心のこっちは口が塞がれてるから応答不能。
【――――宇佐美くん、黙って聞いて。今、イ界がなんらかの魔導器によって、魔術師が誰も出入りできない状態に陥っているみたいなの。きっとそいつら犯人の策よ】
なら先輩が助けに来られないってこと?
【運よくイ界に残存していた魔術師を救助隊として向かわせたわ。ただそれだけでは心許ないから、もうひとつわたしからのプレゼント――――〈僕達の降り立つ未来〉】
この窮地で思わぬ行動に出た先輩。まさか電話越しに空想魔術を起動するなんて!
先輩の詠唱を受けて、眠っていたエソライズムエンジンに息吹が宿る。血流が加速するかのような高揚感。そしてエンジンの妖精さんの声が僕を――
――そしてそれは突然、失速した。
「なるほど、こうやって貴様のようなずぶの素人が魔術師気取りを演じてきたという寸法か。魔女の力を転送するための魔導器か……なかなか興味深い技術だ」
言いながら男が、指先でさっきの金属板みたいな端末を弄んでいる。空想魔術が起動したはずなのに、僕に何も起きない。
――まさか、空想魔術が無効化されたってこと!?
その証拠に、さっきまでの昂ぶりが途端に消えてなくなってしまっていた。妖精さんの声も全然聞こえてこない。まるでエンジンのスイッチが切れたかのよう。
青い男が急に柔らかな笑顔を浮かべた。そして奪った僕のスマホに口づけするみたいな仕草をして、呪文らしき何かを囁く。と、スマホから女性の悲鳴みたいな……雑音が……。
無慈悲にも、通話の途切れたスマホが投げ返される。当たった胸の真ん中に穴が開いたみたいな感覚。えっ……どうなったの、七月先輩。
お前、一体何をした。
「小僧……名前は宇佐美瑛斗、だったな。貴様が魔女の力を借りて奇妙な術を使ってきたのを、オレたちはこれまでずっと見てきたぞ」
なに言ってんだお前。さっきから魔女だ、魔女だって。
「知ってるか? 小僧の主人は、世界中の魔女たちの中でもとびきりの特別仕様でね。その娘は、この世界の未来のためにどうしても必要な素材なんだ。なのに娘ときたら、こんなアジアの辺境まで逃げ込んで、どこかでひっそり息を潜ませてやがる。かくれんぼが実に上手なお嬢様だ」
知るかよ。いっぱい酷い真似をして、そんなにまでしてその魔女とやらに会いたいのか。
ああ、丁度いいや。じゃあお望みどおり会わせてやるよ、とびきり邪悪な魔女に。
――僕は忍ばせていた指先を、ズボンのポケットから引き抜いた。
二本指だけで何とか引っ張り出してきたものを、隣の男に突き付けてやる。怒りで頭に血が上った勢い任せだった。
相手の反応は、こっちの予想をはるかに上回る早さだった。
僕の妙な真似を警戒した男が、僕を撃ち殺す。
「なっ――――――――何をした、小僧――」
本来ならば既に僕を撃ち殺し終えていたはずの男は、ただそう呻くことしかできない。
驚くべき早業で取り出された仕込み銃。突き付けられた銃口は、やや正確性に欠けた狙いだったものの、弾丸は間違いなく僕の無防備な肉体を貫く――そのはずだった。
けれども僕の行動がその結果を変えた。
僕がポケットから取り出したそれは、魔女・Ⅳさんから無理やり渡された黒いハンカチ。
僕たちを取り巻く空間そのものがどくんと鼓動した。表情を歪めた男が手首を押さえ、銃を取り落とす。放たれたはずの鈍色の弾丸は、僕の鼻先で制止している。まるでそこだけ時間が止められたみたいに。
僕はこいつらとのロシアンルーレットに勝ったんだ。
「――――インディゴッ!」
運転手役の巨漢が吠えた。ペダルを何度も乱暴に蹴っ飛ばす。喉を唸らせ、力ずくでハンドルを押さえ付けている。けれども彼の意思を無視して、車は一直線に走り続けた。
――いつ現れたのか、フロントガラス越しに人が立っていた。それも、恐るべきスピードで高速道路の景色が流れてゆくのを背にしたままで。
魔女・Ⅳだ。ボンネット上でⅣさんが不敵な笑みをたたえ、時速およそ百キロの風圧など完全無視を決めこんで威風堂々たるポーズ。あの銀髪や衣服すら一切振り乱さずに。
【妾のダーリンを返してもらいに来たぞ、卑しく愚かなエセ魔法使いどもよ】
中指おっ立てたⅣさんの声が、頭に直接響いた。そしたら僕の手の黒いハンカチが、まるで水中を泳ぐタコみたいに伸びて被膜を広げた。あっという間に視界が真っ黒で覆われ、
「こいつ――スルールカディアの――――魔女――」
男のどっちかが言ったそんな呻き声を最後に、とてつもない衝撃の渦へと飲み込まれた。




