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「えっ…………なに急に、どこかが痛むの先輩!? ねえっ、大丈夫――――」
地面に膝折り、短く悲鳴を上げる彼女。呻き声を押し殺そうとして歯を食い縛り、そのまま両手で目を押さえてる。その手すらガタガタと震えている。
僕は早くも気が動転し始めた。大人なんて周りにいないし、僕が助けなきゃ。
そうだ救急車を呼べば――いや、イ界にそんなものない。そもそもケータイ通じないじゃないか。
「しまっ……た……いけない………………わな、よ、うさみ……くん」
「『罠』って、何がどう罠なの……」
「かいざん……されてる…………残留思念……そのもの……が……」
「改竄だって!? 僕たち、誰かに陥れられたってこと!?」
呻く先輩の肩を抱いて、とにかく彼女の容態を確認する。
銀と紅の瞳が奇妙な光を放ってて、目じりに血まで滲んでいる。その姿に、怪獣の日に味わったあの感覚――苦痛に飲まれる人たちの姿が呼び覚まされて、息が詰まった。
そうしてふと見上げてみれば、あの思念球に異様な兆候が現れていた。澄んでいたはずの光が、青く濁り始めていたんだ。
まるで毒に侵されたようなあの青には見覚えがある。
「そんな……この色って、ファンタズマじゃないか……」
青く染まった思念球がまるで生き物のように輪郭を歪めて、そこからねじくれた脚みたいなものが生えてきた。それも、左右から五本ずつ。
「先輩、このままじゃ危険だ、逃げよう――――」
残留思念がファンタズマに変わっていく。イ界でよく見かける蜘蛛型のあいつとは明らかに別種の、初めて見る個体。なんて巨大で禍々しい造形をしてるんだ。
うずくまる七月先輩を抱き起こそうとして、もう逃げきれないって悟る。
巨大ファンタズマは、片脚をコンビニの屋根に、もう片脚を駐車場のアスファルトに突き立ててこっちをうかがっている。青い光の筋を巡らした、戦車みたいな胴体。先頭の脚一対は、甲殻類みたいな厳ついハサミ形状。狙った獲物をそれで攻撃するとしか思えない。
とにかく距離を置かなければ。死に物狂いで、ぐったりとした先輩を抱き上げる。
僕たちの頭上に落ちた影。反応した奴のハサミが振り上げられたんだ。なのに先輩はこっちに身を委ねる余裕もない。重心がズレて、体勢を崩してしまった。
大バサミが叩き付けられ、大地が震撼した。衝撃に弾き飛ばされた僕たちは、駐車場の端まで転がっていく。
肩肘を付いて上体を起こす。幸運にも直撃だけは免れた。ただ、彼女を庇った手が擦りむけて、血が滲んでいた。砕け散ったアスファルト片を受けた背がじんじんとした痛む。
「うさみ……くん………………」
そこで先輩が僕の胸の中で呻いた。
「七月先輩っ! 体は大丈夫なの、どこか怪我は――――」
僕に重ねられる先輩の手。何か伝えようとしてるってわかって、唇に耳を近づける。
「おね……がい………………ジュヴナイル……ズ……ランド……スケイプ――――」
思いがけず唱えられた僕たちの呪文。彼女の吐息が、鼓膜越しに僕を覚醒させた。
【――――あなたの空想をあたしに見せて。代わりに未来をあたしがあげる――――】
途端、エソライズムエンジンに眠るあの妖精さんが、僕の意識に語りかけてきた。
【――――さあ、教えて――――あなたは、だあれ?】
その問いかけが〝僕〟のスイッチを切り替える。空想魔術が発動したのだ。
「――――我は裁き、斃し、屠る者」
唱えるたびに、今までの〝僕〟を〝俺〟に高める。確かな実感で意識が満たされてゆく。
「我は黒き逆徒――神叢木刹刃」
そう、〝彼〟こそが神叢木刹刃の力と意志をイ界で体現する少年、名は宇佐美瑛斗。さながら小説を綴るかのように、〝彼〟の世界を神叢木刹刃なる空想で書き換え始める。
【――――承認します】
そうして彼女――魔導器の守護者は、この空想を是と認めた。宇佐美瑛斗の空想にすぎない〝俺〟が、〝彼〟が頭の中で想い描くままに、〝彼〟の世界観そのものとなる。
敗北に膝折っていたはずのこの少年――宇佐美瑛斗が、血塗られた手を斃すべき敵に差し向けた。その指先が空間を切り裂くかの如く、宙に月輪めいた軌跡を描く。
「――我に巣くいし半身、〈叛神半魔の義腕〉よ」
そうして彼は、このイデアール境界領域内世界に理屈上存在しない架空の義腕と魔刀を空想。さらにそれらの具現化を待たず、事象地平面すら超えた最速の抜刀を果たす。
「――数多の因果律を超えこの場に結実せよ我が刃」
義腕で真説魔狼斬を背負い、少年は巨躯の敵へと対峙した。
本来の両腕で絵穹を抱え、獲物を見据える双眸は深淵の如く底が知れない。片や甲殻類然とした敵はコンビニエンスストアの屋根に這い上がり、大鋏めいた前脚を振り上げて威嚇動作を繰り返すのみだ。
「敵性存在、構造解析――――」
第二の心臓として右胸に宿した魔導書が、視覚情報を介して対象物の分析と再解釈を始める。今の彼は、黒き逆徒として能力を発揮するための魔装具――贖罪の冠を持たずとも、戦闘機械としての機能に過不足なかった。
「――対象、魔導書に記録なし、新型ファンタズマと判断――書架に登録――これより当該ファンタズマを〈黒鋼の簒奪者〉と呼称する――過去の戦闘履歴を元に敵戦闘能力値を演算――殲滅確定――あらゆる敗北の物語は、この俺が覆す。さあ、逆襲の幕開けだ――」
狼煙となる宣告を述べた刹那、瑛斗はアスファルトを蹴り、跳躍した。
眠る絵穹を抱いたまま、飛翔魔術を展開。魔法円による重力変換と加速を得て、宙を舞う。大鋏を掲げ待ち構えるアヴラルクス・レギオン目がけ、迷いなく突き進んでゆく。
「鞘奔れ、我が刃よ――」
真説魔狼斬の鋭利な先端が、敵を貫く寸前のことだ。
左右一対の鋏が、彼の一の太刀を捕えていた。白刃取りの構えだ――が、挟み込んだ前脚の外骨格が脆くも砕け散る。その程度では、彼の勢いを相殺することすら叶わない。
瑛斗の刃が、遂にアヴラルクス・レギオン本体へと達する。
「硬い――だがしかし、その装甲貫けぬならばッ――――」
吠える瑛斗。アヴラルクス・レギオンの五本脚を束ねる胴体部へと達したはずの切っ先は、鍔迫り合いめいて拮抗していた。弾ける火花が互いの皮膚を焦がす。
「破ッ――――――――」
瑛斗自身の手が魔術式をなぞった。
そう、義腕所持者たる刹刃は、計四本の手を駆使し白兵戦と魔術戦が同時に行える魔導戦士だ。宙に足場となる魔法円を出現させ、それを軸足に物理法則を曲げてのさらなる空間跳躍。一閃に貫くと思われた切っ先を虚空高く斬り上げる。組み合わせられた飛翔魔術によって、運動エネルギーの自在操作が実現される。
接触点から袈裟切りにされ、アヴラルクス・レギオン胴体の外骨格が縦に破断した。
切断面から放出される青き血飛沫。断末魔代わりの、おぞましくも美しき流星群だ。
上空で静止した瑛斗の胸元で、勝利を祝福するかのように絵穹の瞼が開かれる。
だがここで彼の内に、一つの、しかし拭い去れぬほど大きな疑問が湧き起こった。
「――――いや、何かが違う。さすがに呆気なすぎる」
秘奥義なしに強敵を屠ったのだ。それも、たったの一撃で。
「あいつは絶対に中ボスクラスだって覚悟してたのに、見当違いだったのかな、〝僕〟の」
湧き出した疑問は、さながらコップの中の水に堕ちた一滴のインクのように作用した。闘う意志が薄れ、この少年の昂ぶりきっていた空想力が、途端に終息を始めたのである。
でも嫌な予感がした。刹刃の魔導書でも解析できなかった何かがある。
眼下を注意深く見下ろす。僕はまだ空中に浮かんだままだった。足場がぐらぐらと不安定で、しかもあまりの高さに心臓が悲鳴を上げる。
さっきまでの自分がどっかいっちゃったのは、エンジンに供給する「厨二力」が緩んでしまったせい。義腕も魔刀も、我に返った瞬間に消えてなくなっちゃったし。
「ねえ先輩。起きてよ、七月先輩ッ!」
抱きすくめた彼女の肩を揺さぶる。ていうかお姫様抱っこ、めちゃんこ重いんですけど。
それにも増して、この状況はおかしかった。真っ二つにした蟹ファンタズマが、滅びの光を放出しながらも、コンビニ上に未だ健在だったんだ。
「あれ……ヘンだな。あいつ、なんでまだ消滅しないんだろう?」
それどころか、上空に留まる僕の眼下で、奴が放つ光が急激に勢いを増していく。
膨張。それはまるで火花を散らす導火線――ダイナマイトへと向かう――――
「まさか……自爆!? ちょっ――――や――――ばッッ――――――――――」
閃光に飲み込まれ、僕たちは視界を失う。
――――――そして、ここが爆心地となった。




