二人の奴隷 ①
「―————————……?」
慣れない痛みがして、目が覚めた。
むくり、と体を起こす。
そこは薄暗くて、埃っぽい場所だった。寝起きで目が霞んでいて、肌の方が多くの情報をくれる。
まず何より、背中が痛い。
寝ていたのは粗末な土間で、つまりは地面だ。この硬すぎる寝床にどれだけ寝ていたのか、骨盤のあたりがミシミシ軋んでいる。
ただ一応、体の下にはナツメヤシの枯れ葉が敷いてあった。
目が慣れてくると、そこが狭い部屋だと分かった。窓はない。どうやら半地下の物置小屋のようで、部屋の片隅にある短い石段を登った先には出口があり、わずかな光が射していた。
出口には扉がない代わり、大小さまざまな水甕が積まれ、少なくとも目隠しにはなっている。その不自然な積まれ方には「出るな」という警告が読み取れたが、自力で撤去できないほどではない。
つまり「監禁している」のでなく「匿っている」のだ。
(誰か…………助けてくれたの?)
そろりそろりと石段を登る。背伸びをして、水甕のバリケードから頭を出す。その向こうには、見慣れない景色が広がっていた。
「これ…………もしかして、マーハの街?」
地下室の出口は、人気のない寂れた路地裏に面していた。ちょっと先で大通りに通じていて、そこには行き交う人々の姿が見える。
派手な色合いのカフタンを纏わせた商人。野良ネコを追っかけ回して遊ぶ子供たち。頭の上に果物かごを乗せて歩いていく女性。サフィにとって間近にありながら、間近には見たことのない「壁の外」の世界。
もう時刻は夕方らしく、人々の顔は茜色を浴びている。
カァァァン! カァァァン! カァァァン!
しばらくして、夕刻の鐘が鳴った。大鐘塔の間延びした音色とは違う、急き立てるような忙しない鳴らし方だ。
気づくと、水甕の向こうに誰かが立っていた。
「ひょああああぁぁ⁉」
素っ頓狂な声をあげながら尻餅。外に立っていた人物にもサフィの奇声が聞かれていた。
「おっ? 目ぇ覚めたみたいっすよ、兄貴」
「…………ああ」
声の主は二人いた。彼らは出口に積んでいた障害物をてきぱきと撤去すると、サフィのいる地下室の石段を降りてきた。
ぺたんと座り込んだサフィ。目の前には、どうやら地面に尻をなじませるのに慣れた男が二人。
サフィは、おずおずと伏し目がちに相手を観察する。
一人は、背丈の小さな少年だった。マルシャと似たような栗色の癖っ毛で、どこか品のある顔立ちをしている。
もう一人は対照的に、背丈があって体格のいい青年だった。黒い短髪、黒い瞳、切れ長の眼をした精悍な顔つき。がっしりした肩幅、適度に太くなった腕、鍛えられた足腰と、やたら無骨な印象を受ける。
サフィの素肌もシナモンのような褐色だが、その二人…………特に青年の方は、太陽に長く灼かれたらしい煤けた色味をしていた。
「あの…………わたし、どうしてここに……?」
サフィはおずおずと尋ねる。見たかぎりの印象はともかく、この二人が悪漢でないと断定はできない。
すると、少年の方が、サフィの神妙な面持ちを見て笑った。
「ほらぁ! やっぱ兄貴がゴツ過ぎるんすよ! ほらほら笑顔笑顔!」
「…………早いところ素性を話そう」
けらけらと笑う少年に対して、兄貴と呼ばれた青年は表情に乏しかった。ゴツさを和らげる笑顔は望めそうにない。
「俺はシドルク。こいつはジュニ。街はずれの麦畑で働いてる奴隷だ」
シドルクと名乗った大柄な青年は、淡々と最低限の言葉を並べた。
「え、あ………………『奴隷』…………?」
サフィにとって、未知ではないが聞き慣れない響きだ。
奴隷。
人でありながら、人の所有物となった者。
砂漠世界における労働力の源であり、マーハの市場で売り買いされる「商品」の一つ。その出自は様々であり、両親ともに奴隷だった者、金に困って身売りした者、戦争に敗れた都市国家の市民、捕らわれた異民族——————。
そして、サフィがいた王宮に「奴隷」は存在しない。
王宮で肉体労働を担うのは、正式に官位を与えられた女官や男性の下級官。上級女官である踊り子も、夜宴がある時以外、炊事場や洗い場に駆り出される。
目の前にいる二人は、その手首や足首に炎のような入れ墨があった。サフィは聞いた事がある。それは「野火の徴」と呼ばれる奴隷の証。この砂漠世界のどこへ逃げようと通用してしまう、不名誉な身分証だ。
そこに加えて、シドルクの全身には数多くの古傷が刻まれていて、奴隷として過ごした半生の有り様を見せつける。
「そんで、姉さんは?」
「え、あっ…………うん」
ジュニが気軽な口調で問いかけると、サフィは柄にもなく縮こまっている自分に気づいた。
「………………サファルケリア=ウル=アシタファ。サフィ、って呼ばれてます。えっと……この街にある王宮で、『踊り子』っていうのを」
「うおおおおおおおおマジで⁉ マジに踊り子なんすか⁉」
ジュニが目を見開いて騒ぎ出すが、すぐに自分で口を塞いだ。
「サファル、ケリア…………サファルケリアか」
シドルクの薄いくちびるが動いた。大袈裟な少年とは真逆で、眉一つ動かしていない。
ジュニの口から、昨夜あったという出来事が語られた。
たまたま「王の額」に通りかかったシドルクが、突然落ちてきたサフィを受けとめたこと。
気絶したサフィを運び、二人の寝床である地下物置に寝かせたこと。
そして、このことを二人以外の誰にも明かしていないこと。
「そっか……………ありがとう」
サフィは頭を下げた。
落ちてくる人間を受けとめたと簡単に言うものの、普通に考えて命懸けだったはずなのだ。シドルクの行動がなければ今頃、空の星だったに違いない。
(あれ…………?)
その時、サフィは一つ違和感を抱いた。
(壁の上で踊ってた………けど…………なんで落ちたんだっけ)
「礼には及ばねえっすよ! 姉さん一人受けとめたり運んだり、兄貴にとっちゃ朝飯前っすから!」
「………………気にしなくていい」
当の功労者シドルクは、やはり顔色一つ変えていない。
その時、サフィにまた別の疑問が湧いた。
「でも、どうして運んでくれたの? そのまま王宮に届けてくれても良かったのに」
不平不満を言いたいわけではない。ただ、すぐにでも王宮の門兵に引き渡した方が、二人にとって面倒は少なかったはずなのだ。
「あー……ええとっすね…………サフィ姉さん、寝起きで悪いっすけど問題です」
「え? は、はい」
仰々しい咳払いをして、ジュニは人差し指をぴんと立てる。
「みんな寝静まった真夜中、姉さんは『王の額』から一人で落ちてきたんでしょ? これ、誰かが見てたら何だと思うすか?」
「………………月夜に舞い降りた美少女戦士?」
「しくじった脱走犯、だ」
シドルクの寸鉄がポンコツ美少女に刺さる。
「あっ…………」
その時、はじめてサフィの表情筋が固まった。
自分が猛禽類の縄張りにいることに気づいた、間抜けなウサギのような顔で。
「そう、今の姉さんは『脱走犯』なんすよ」