星が墜ちた日 ③
カァァー……ン
カァァー……ン
カァァー……ン
日没が近づくと、王宮の北側にそびえる大鐘塔が「夕刻の鐘」を鳴らし始める。
のびやかな金属音がマーハの街並みに響いていき、市街各地に建てられた鐘塔は、輪唱するように後に続く。
昼は悪魔の時間、夜は女神の時間。
古くから、砂漠の民はそう言い習わした。夕刻の鐘は、炎天下を生き抜いた命に、一晩の安らぎを与えてくれる福音だ。
もっとも。
昼の仕事を残すような怠け者は、その限りではない。
「違うよサフィ! そっちの鉢は石鹸水だよっ!」
「うえぇ⁉ ごめん、浸けちゃった!」
「ああもう、こっちで濯ぐから貸しなさいっ!」
あの修羅場から戻ってきたサフィは、マルシャ、ネフリムに急かされて洗濯を再開した。
洗濯鉢に一つかみの下穿きをひたしては揉み、水を絞る。夕方とはいえ、ここは夏の砂漠地帯。しゃりしゃりした亜麻の服なら問題なく乾かせる。てきぱきと吊るし紐にかけて、あとは南から吹きこむ夕風に任せればいい。
他にいた女官たちは引き上げて、洗い場には三人だけ。宵闇に溶けていく空が、ざわざわと胸中を急き立てる。
それでも、与えられた仕事を投げ出さない程度の責任感は持ち合わせていた。
「ちょ、ちょっと!? 今ごろ何してんだい⁉」
その時。
通りかかった恰幅のいい熟年女性が、三人を見つけて驚愕した。
「アンタたち、もう仕事の時間だろ⁉」
女官長のトルマリアは大股で近づくと、サフィの手から洗い鉢をぶんどった。
トルマリアの呼び声で何人もの手伝いが駆けつけ、残った洗濯物をたちまち奪っていく。トルマリアの剛腕に背中を押され、サフィは洗い場から締め出された。
「ご……ごめんなさいトルマリアさん! 終わらなくて……」
「いいから行きな! ほら、これも!」
ぽーんと投げ渡された貝殻は、軟膏が入れてある。水仕事による肌荒れを防いでくれる優れ物だ。サフィは謝意を述べて、ネフリムとマルシャを連れて走りだす。
洗い場のある区画は、目的地である金纏宮から北東に離れている。ちょっとした街ほども広大な王宮敷地だが、残念ながら、ここには馬貸しもラクダもいない。
夕空に輝いている金色のドームをめがけ、三人娘は地を蹴った。
「ネフリム、まだ間に合うっ⁉」
息を弾ませながら、サフィは左後ろを走るネフリムに尋ねた。
「影を見てたから時間は分かるわよ。間に合うわ。昼のうちに運んでおいて正解だったわね」
「いよしっ!」
「ふへぇぇぇぇ……! よかったよぉ……!」
煮炊きの湯気をもうもうと吐く炊事場。下級女官たちが暮らす二階建ての宿舎。仲間と談笑していた衛兵が、突っ走るサフィたちに驚いて道をあけた。
やがて見えてきたのは、中央正殿の裏手にある小さな入口。
だが。
そこでは、腕組みをした年配の女官が、眉間をノミで彫ったような顔で待っていた。
「…………ネフライエ=ウル=ナスィーム」
「はい」
「マルシャ=サルサラーン」
「はひぃっ!」
「サファルケリア=ウル=アシタファ」
「は、はぁい……」
「こォの遅刻魔どもッ! さっさと『化粧部屋』行ってきなァ!」
「すみません」 「「すいませんっっ!」」
平謝りをして、三人は中央正殿の中に駆けこんだ。北側の奥まった廊下を走り抜けて、「化粧部屋」へと到着する。
何の変哲もない大部屋に、化粧道具やら何やらを抱えた下級女官が忙しなく出入りしている。
今ここは王宮でも数少ない、男子禁制の聖域。
ぱさり……と。
部屋に入った三人は、袖のない古びた亜麻を脱ぎさった。
夕刻の鐘から、一時間が過ぎていた。
太陽はすっかり砂漠の彼方に沈み、待ち望んだ夜が訪れる。
金纏宮の大ドームの下――――迎賓広間では、すでに百人以上の客が酒盛りに興じていた。
居並ぶのは、マーハの経済を支える大商人や地主たち。香草をきかせた仔羊肉のカバブ、鯉一匹をまるごと焼いたマスグーフ、琥珀色の麦酒が所せましと並び、舌の肥えた素封家を飽きさせない。
しかし客の多くは、気も漫ろに何かを待ちわびていた。
ちらちら目をやる先には、迎賓広間の中央に設えられた舞台と、その上を包み隠している垂れ幕。
「ええ、御一同。お待たせしました」
宴の司会役が手を伸べる。
歓談していた客が、吸い寄せられるように耳を傾けた。
「今宵お目にかけますは、当代きっての名手『瑠璃組』にございます」
どよめきが起こった。その名を知るらしい観客は耳を疑い、息をのむ。
「演目は『淵の底の魔人』。それでは、良き時を」
その瞬間。
幕が引かれ――――――脚光を浴びる。
純白のサテンシルクに身を包み、菫色のヴェールをたずさえ。
ゆれる黄金のチャームに混ざり、大粒のラピスラズリが海色を放つ。
ひざを立てた姿勢から、音もなく立ち上がる。伏せていた顔が、陽光を浴びるように衆目に晒される。
「おおおお…………あれが本物の……!」
踊り子隊「瑠璃組」
マーハ王宮に所属する十五の踊り子隊――――その最高峰として名高い、大陸の果てまで知られた砂漠の至宝。
まなざしが雨あられと殺到する。舞台の下には琵琶弾きが座り、張りつめた弦に鳴爪をそえる。
すぅ…………と。
一輪花のように手を差しのべ、燦として笑顔を咲かせ。
(さあ、ご覧あれっ!)
不敵な笑みを浮かべて――――――サフィが躍動する。
つま先を浮かせ、氷上を滑るような左ターン。
しゅるらっ!と切り替え、風を抱きながら右ターン。
指輪に結ばれたヴェールが、雲を、嵐を、花ふぶきを、三日月までも変幻自在に象っていく。
「おお、これは…………なんと………………!」
しなやかに波を打つ「蛇の手」。
くびれたウエストを露わに、骨盤のうねりで強調されるボディライン。
あでやかに優美に、刻一刻と変わるシルエットで客の目を魅了する。
もはや野太い歓声は聞こえない。
酒に夢中だった客までもが、ただ舞台に魅入られていた。
しかし、これはまだ演目前のつかみに過ぎない。
演目名「淵の底の魔人」
古い寓話をベースにした、魔人が登場する報恩譚。
ある砂漠の町に、オアシスの泉へ祈りを捧げる乙女がいた。ある日、町は恐ろしい火の悪魔に焼き尽くされ、死期を悟った乙女はオアシスに身投げする。そこで水底に封じられた魔人が目覚め、死闘の果てに火の悪魔を討伐する。善をなした魔人は封印を解かれ、乙女を連れて天上世界へと旅立つ。
このモチーフを。
一片の言葉もなく表現してのける力が、「瑠璃組」にはある。
(ここから、こうで、こうっ!)
乙女を演じるのはマルシャ。ふわっ……と身を屈め、その落差でヴェールを宙に置きざりにし、翼のようなシルエットを描く。年齢らしからぬ演技力には、観る者を劇中世界に惹きこむ魔力がある。
(初めてのお客が多いわね。ちょっと大袈裟にした方がいいかしら?)
悪魔の役、ネフリム。しなやかな四肢、すらりとした長身痩躯を振るうさまは、さながら舞台上を統べる女帝のよう。洞察力にも優れ、息つく暇もないステップの中であろうと観客の反応を見逃さない。
マルシャもネフリムも、他の踊り子隊にいたなら間違いなく看板をはれる逸材。
そんな二人が描きだした舞台世界で、ついに主役が動きだす。
(よしよし、二人とも絶好調だね………………でもっ)
そして来たる「淵の底の魔人」の山場。
乙女の沈みゆく深淵から――――――妖美なる魔人が現れる。
(こっから先は…………わたしの時間っ!)
対の手をこぶしにした、堂々たる戦者の構え
――――――から、一瞬の脱力。
ひゅあっ!と、太刀風をおびるようにシャープな円転。それが一秒も絶えることなく連鎖していく。体の軸は一切ぶれない。ヴェールの余韻を残しながら急反転、さらに勢いを増しながらターンを繰り出す。
ヴェールを纏わせる姿は、さながら紫煙を漂わせる魔の化身。
自由闊達を地でいくように、サフィの魔人が大活劇を繰り広げる。
(ううぅ~っ! 楽しい! 楽しい〜っ!)
踊れる。それがただ嬉しい。心は弾み、玉になった汗が輝きながら散っていく。
「………………お、おぉ……!」
百人はいようかという観客が全員、感嘆のあまり喉を詰まらせていた。
たんっ!と踏みきり、サフィが背面跳びで宙を舞う。
ふわっ……ひゅるららららららららららんっ!
滞空中に体をひねりながらの跳び乱舞。ぶわあああ……っ!と残像のヴェールを狂い咲かせ、すとん……と着地。
「お、おおおおおおおおぉおおぉぉぉッ!」
鮮烈なパフォーマンスに、ついに沈黙が破られた。
稽古を重ねたとはいえ、こんな大技を本番でやってのける肝っ玉。思わず仲間の二人も舌を巻いた。
(…………流石に、これは真似できないわ)
(はあああぁ……! サフィ、やっぱり凄いよぉぉ……!)
ふとした瞬間。
踊るサフィの瞳に、迎賓広間の奥が映りこんだ。
奥に敷かれた絨毯席には、三人の影。
貫禄たっぷりな真ん中の男性――――ドゥラーン=セム=ザヒード国王。
爽やかに笑う右側の青年――――ジャムゥル=セム=ザヒード皇子。
そして、淑やかな笑顔を向けている一人の貴婦人
――――――ルベリエラ=ウル=ジルヴァ王妃。
(ほあああぁ……! お、王妃様が…………みみみて、見てえ……っ!)
アイシャドウに彩られた、深海に引きこむような瑠璃の瞳。
ほんの一瞬、ひと目だけで十分だった。
憧れの人に観られている高揚感が、サフィの理性を飴細工よろしく蕩けさせる。
それでも、サフィの脚運びに狂いはない。フィナーレに向け、指先一つに至るまで完璧に踊りきる。
そして、「淵の底の魔人」は終演を迎えた。
笑顔をふりまき、舞台から一礼する三人。
天穹を象るような大ドームの下、万雷の拍手がいつまでも轟いた。
サフィ、ネフリム、マルシャ。
これが、瑠璃組と呼ばれた三人の踊り子の、日常だった。
「次……いつ踊れるかなぁ」
舞台後ろの花道を歩きながら、サフィは珍しく独り言をもらした。