星が墜ちた日 ②
かすかな喧騒が、サフィの耳にも届いた。
この洗い場からは少し遠いらしい。しかし、ふと見れば若い女官たちが次々と持ち場を離れ、騒ぎの聞こえる方へと駆け出していく。
その渦中にいる人物は、水汲み場のそばで足を止めた。
「今日の調練も上々であった! 兵たちに水を頼む!」
一人の青年が叫んだ。
均整のとれた肉体、日に焼けた肌、鳶色の瞳、古代の神像のように眉目秀麗な顔立ち。水を汲んだ陶器を受け取ると、ばしゃん!と頭から水をかぶり、ブロンドの美髪を振って水の玉を輝かせる。
続いて砂だらけの兵士にも水が配られ、豪快な水浴びが始まった。
「うほほおおおおおッ! 生き返るぅぅぅぅッ!」
それは炎天下の調練に耐えた兵士にのみ与えられる労い。砂漠の民にとっては最高の贅沢だ。百人あまりの屈強な男たちが、ずぶ濡れで笑い、喉に流し込んで渇きを癒やす。水汲みの場は、ちょっとした祭りの様相を呈していた。
「で、殿下…………ジャムゥル皇子殿下っ!」
美青年のもとに、まだ十代の若い女官が近づいてきた。手に持った顔拭き布をおずおずと差し出す。
「おう、すまんな!」
水もしたたる貴公子――――ジャムゥルは、彼女から顔拭き布を受け取った。
ふわっ……と、額を一拭きして違いに気づく。肌触りが異様に良かった。吸水性にも優れ、そもそも素材からして何か違っている。
「…………おお? これは随分な使い心地だ。そなたがこれを?」
「は、はい! あの、皇子殿下にお使いいただこうと、少しずつ木綿を集めまして……!」
たどたどしく答える女官。王族が使うという点を差し引いても、たかが顔拭きにしては上等すぎる。言っている間に、彼女の耳は茹でたように赤く染まっていた。
(………………。)(…………。)(…………。)
そんな甘酸っぱい様子を、人混みにまぎれて監視する者がいる。皇子の帰りを聞きつけて集まった数十人の女官――――「親衛隊」だ。
無論それは、「貴人を守る兵隊」という本来の意味ではない。
(ふぅん? いい度胸してるわね、あの子)
(刺繍係の子よ。あーあ、お昼はとうぶん泥の味かしら?)
露骨に睨んだりはしない。ただ一様に、禁忌を犯した女官に殺気を放っている。
親衛隊の女官にとって、ジャムゥル皇子という存在は「絵」だ。部屋の壁いっぱいに描いた、日々を生きる糧となる名画。直接その手で触れようとしない代わり、何者かが筆を入れることは絶対に許さない。
ゾワゾワと殺気の密度が増していき、水浴びの兵士にも寒気を感じる者が出始める。
和気あいあいとした水場が、静かに修羅場へと変貌していく。
「あ、あの、お気に召しましたか?」
「うむ、重畳であったぞ!」
ジャムゥルは顔を拭き終わり、爽やかな笑顔を向けた。
「それで、兵たちの分は無いのか?」
「はい………………?」
きょとん、として皇子の顔を見上げる女官。
「いつもの亜麻でも悪くはないがな。これならば兵の労いにもなる。それに、血止めにも使えそうだ。遠征の携行品に加えてもよいな…………。そうだ! そなた国王軍に来る気はないか? これの量産が叶うならば——―—」
嬉々として計画を語りだす皇子の前で、ほんの少し、悟られない程度に、女官の顔は引きつっていた。
監視していた親衛隊も、贈り物が「不発」だったと知るや、殺気を引っ込めた。むしろ憐れみの視線を向ける者もいる。周りの兵士も気まずさを感じたのか、その空間に立ち入ろうとはしない。
「ええと、ご機嫌うるわしゅう。皇子殿下」
そんな禁足地に、一人の少女が踏み込んだ。
「んん? おお、そなたか!」
ジャムゥルが爽やかに答える。
遠巻きに見ていた連中が再び殺気立ち、闖入者を思わず睨みつけた。
(な……何なの⁉ 殿下にあんな軽々しく……!)
(知らないの? こないだ噂になったじゃない)
(じゃあ、あの小娘が…………『サフィ』……⁉)
噂の小娘サフィは、特に畏まった感じもなく、ジャムゥルの目の前まで接近した。
「その……わたしからも差し上げたい物があります。構いませんか?」
「ほほう? しかし、この逸品の後では苦しくはないか?」
ジャムゥルが軽口で返した。良くも悪くも鈍すぎる性格ゆえに、サフィの気軽さも、サフィに向けられる嫉妬や殺意も気にかける様子がない。
サフィが後ろ手に持っていたのは、一枚の封書だった。
東方発祥の漉き紙で、折り目も丁寧。ほのかに甘い香りがする。
「これは…………文か? 一体どのような」
「恋文ですよ?」
さらりと答えるサフィ。
しかし「恋文」という単語が出た瞬間、女という女全員に電撃が走った。
(へ、へへへ恋文⁉ 恋文って言ったわよね、今……!)
(ほら、やっぱり本当だったのよ! あの噂!)
(あ、甘かった……! 警戒すべきだったわ……!)
恋文とは、恋慕の想いを紙につづり、バラの香油を塗って手渡すもの。西方から伝わった比較的新しい文化だ。
ジャムゥル皇子に恋文を渡そうとする女性は星の数ほどいた。しかし、食事や召し物に紛れた恋文は親衛隊が破り捨て、親衛隊どうしでも互いに牽制し合ったため、皇子の手まで届いたものは今日まで一通もない。
そのため、受け手としてジャムゥルの反応は少々ズレていた。
「ほほう、これが恋文か! 好いな、受け取っておこう!」
「ふふふ、どうも♡」
つぶらな灰色の瞳を細めて、サフィは笑った。
そのまま、背中いっぱいに嫉妬と呪詛の念を浴びながら――――その場を去ろうとした。
「待て待て、恋文というのは返事が要るのだろう? いつ欲しいのだ?」
「え…………あっ、お返事」
やや意外そうな面持ちで振り向くと、サフィは少しだけ思案した。
「ええと……いえ、要りません。読んでいただけたら十分です」
「なぜだ? 文であろう? 返報の要らぬ文などあるのか?」
「…………ですよね。わたしもそう思います」
皇子と野次馬たちの頭に疑問符が浮かぶ。サフィはケロッと笑って見せた。
「言われたんです。それを書いた人に」
( はあ……………? )
後頭部をぶたれたように唖然とする面々。
固まる空気の中、当の本人だけが沈黙とは無縁だった。
「なるほど、そなたは伝書鳩というわけか。これは迂闊であったな!」
あっけらかんとして皇子は笑った。サフィに対して落胆したり憤慨したりする様子は微塵もない。バラの香りがする封書をながめ、まるで異国の珍品でも手に入れたように満足げだ。
サフィは、最初から分かっていた。
色恋に全く興味のない皇子の性格も。
ここが愛の告白をする場所ではないことも。
人混みに紛れたつもりの親衛隊が、どんな疑いを自分に向けているかも。
サフィは今度こそ背を向け、その場を去っていく。
ただの伝書鳩だと名乗ったところで、置かれた状況は大して変わらない。レッテルは剥がれない。口さがない女官の間で囁かれた「あの噂」は、今もなお、その華奢な背中に付いて回っている。
めちゃくちゃにしてやりたかった。
くだらない妄想を――――救いようのない被害妄想を、一笑に付してやりたかった。
「………………。」
足早に歩きながら、サフィは親指を握りこんだ。
ふと気づけば、西の空が茜色に染まっている。
サフィが仕事場に戻っていく途中で、鐘の音が響き渡った。
カァァァー……ン カァァァー……ン カァァァァー……ン
「うわ、もうそんな時間っ⁉」
さっきの修羅場では汗一つかかなかったサフィに、初めて焦燥の色が浮かぶ。
遠くに見える洗い場で、マルシャが小さな手を振っていた。
「サフィー! お仕事まだ終わってないんだよぉー⁉」