星穹に彷徨う
月夜のとばりが下りた。
紺碧の空に浮かんだ金纏宮の巨影。そびえ立つ下界の月は、美を競うように天空の月と対峙する。
一幅の絵に収まらない神秘の光景。
それを拝めるのは、この砂漠の主に招かれ、城門を通ることを許された一握りの身分に限られる。
中央正殿の最上階――――国賓五百人がひしめく迎賓広間は今、まさに熱狂の頂点を迎えていた。
「さあ、ついに始まりますは最終節『魔の連峰』でございます! ああ、喝采を! あらんかぎりの喝采を!」
万雷の歓声を浴びながら――――舞台に立った者の一人は、尋常でない量の汗を流していた。
「ジェッダ……!」
「ジェッダ先輩、流石にもう……っ!」
「………………るせぇ、客が見てんだろが……!」
引きつる脇腹と右ひざに喝を入れ、踊り子ジェッダは最後の構えをとる。
ちらりと一瞬、舞台後方のカーテンに目をやった。
その奥に控えているのは、二名の踊り子――――マルシャとネフリム。
「……………………。」「……………………。」
もはや言葉は交わされない。マルシャはしきりに指を絡ませ、ネフリムは長い腕を組んでいる。
二人とも、胸の中では激しい焦燥と闘っていた。「彼女」を信じ抜きたいという意志が、頭をもたげる猜疑心を必死に押し殺す。
――――――きっと来る。来ないはずない。
踊るために生まれて、踊るために生きてきた。舞台を降りたそばから次の舞台のことを考えていた。誰よりも一途で、死ぬ時もきっと舞台の上。
それが二人の知る彼女――――――踊り子サフィだったはずだ。
そこへ。
下階へと続く螺旋階段から、一人の足音が聞こえた。
聞き慣れた足音が次第に近づき、二人は階段に目を向ける。
マルシャの大きな眼が、ぱっと開かれた。
「サフィ……っ!」「サフィ……⁉」
「…………ほんっとに、ごめんっ!」
駆け寄る二人に、サフィは深々と頭を下げた。
空色に染められたサテンシルクを纏わせ、アイシャドウを塗り、ふわりとした黒髪は綺麗に梳かしてある。大舞台に相応しい、非の打ち所のない踊り子の姿だった。
「サフィ……っ! どこ行ってたの? わたし、わたし……っ!」
留めていた感情が溢れだすマルシャ。幼いながらも踊り子の意地で、化粧を崩すまいと涙をこらえる。
「ごめん、ごめんねマルシャ、心配したよね」
マルシャの小さな背中を何度も撫でる。しっかりと肩を抱き、もう離れないという意思を示す。
「あら、わたしには無いのかしら?」
頭上から、もう一人の仲間が恐ろしい顔で睥睨していた。
「ネフリム…………心配、した?」
「あんたねぇ、人を何だと思ってんのよ……!」
そう言うと、すらりと長い腕が伸びて――――サフィとマルシャを抱きしめた。
「…………あとで全部話してもらうわ。覚えときなさい」
ネフリムの言葉はいつものように厳しい。その肩は小さく震えていた。
そうだった。強い人でも――――強く見える人でも、心の奥にある弱さまでは見抜けない。ついさっき学んだばかりだ。
その時、カーテンの向こうで歓声が爆ぜた。
「これにて『七つ海の奇譚』、終演にございます! あっぱれ、実にあっぱれでありました、翡翠組! ああ皆さま、どうか惜しみない喝采を!」
熱狂に沸く観客に向かって、翡翠組の三名が一礼した。舞台から花道に降りて退場する間、ジェッダは両肩を仲間二人に支えられていた。
舞台後方のカーテンをくぐり、控えていた瑠璃組と鉢合わせる。
「………………ジェッダ」
「…………あぁ? ンだよ、来たのかよ」
全員が沈黙する中、両隊の主役どうしが目を合わせる――――が、いつもの一触即発の空気はない。
「そこのノッポ女がよ…………仕切り役に頼んで、一番手を譲ってくれてよォ。お偉いさんに、たいそう顔が利くようで…………羨ましいぜ」
悪態をつきながら、ネフリムの方をちらりと見た。
「おかげで目立ちに目立ったわ…………今年の一番は決まったな、ありがとよ」
ふてぶてしく皮肉を言うジェッダだが、今にも倒れそうなほど精根は尽きている。
いくら序列を決める大舞台とはいえ、踊りの完成度にこだわる彼女が、ぶっ通しの連続演舞なんて好き好んで挑むはずはない。サフィには、それが分かっていた。
「ごめんね、ジェッダ。…………ありがと」
「あああッ⁉ 何言……っ! キモチ……わり…………!」
息も絶え絶えに、ジェッダは仲間と共に階段を降りていった。
「さあ、続きましては皆様お待ちかね!」
額の汗をぬぐい、司会役が叫んだ。五百人の観客の目が、今ふたたび中央の大舞台に注がれる。スープの匙ひとつ鳴らない静寂。盛大な宴にそぐわない空気が、一瞬だけ迎賓広間を満たした。
「ここまで栄冠に輝くこと三度! 『瑠璃組』の登場です!」
舞台奥のカーテンが開かれ――――サフィを先頭に、三人が花道に現れる。
「おおおおおおおッ! 出たぞ、あの三人だ!」
「ああ、昼も夜も待ちわびた! 魅せてくれ、もう一度魅せてくれ!」
耳をつんざく拍手喝采。歓声の嵐が大ドームを震わせる。翡翠組が昂らせた熱気が、瑠璃組の期待感を否応なく高めていた。
舞台までの花道を歩きながら、サフィは一度だけ目を閉じた。
最後に舞台に立った宴は、たったの六日前。
あの夜、あの城壁から落ちてなければ――――きっと何も知らないまま、同じ花道を歩いていた。あの苦労の日々も、残酷で哀しい世界も知らないままで。
二日前の夜、一度だけ、踊り子でいることを諦めた。
もう帰れない舞台を目に浮かべて、震えが止まらなくて、足元から世界が崩れていく感覚があった。
それでも今、ここにいる。
舞台へと続く花道は一段高く、すぐ近くまで客の絨毯席が寄せられている。こちらを見上げるのは傷一つない貴人の顔。大臣に上級官、将軍、大商人に氏族当主、遠い異邦から招かれた王侯貴族。
はるか向こう、迎賓広間の奥にも、舞台を見守っている人がいる。
ドゥラーン国王陛下に、次期国王のジャムゥル皇子。
そして――――――ルベリエラ王妃もまた、あの日と同じ瑠璃色の瞳を向けている。
でも、ここにはいない。
誰よりも見て欲しい人が、この場所にはいない。
「ねえ、ネフリム」
右後ろを歩いている彼女に、サフィはこっそりと呟いた。
「あとでさ、お金の集め方、教えてくれる?」
「………………ほんと、何があったのよ、あんた」
ネフリムは肩をすくめながら、知らぬ間に大きくなった妹分の背中を見ていた。
そして、三人は舞台へと上がる。
拍手の嵐に襲われ、歓声の瀑布に身をうたれる。
「御覧に入れますは、演目『星穹に彷徨う』でございます!」
誰もが足をすくませる大舞台。しかし、サフィの顔に気負いはない。マルシャもネフリムも、今この瞬間を待っていたとばかりに気力が漲っている。
サフィは、ぐっと右手を握った。
疲労は吹き飛び、熱い血液が巡っている。コンディションに不足なし。心残りがあるとしたら「合わせ」をする暇が無かったことだが、幸いにも今から披露するのは、サフィの真骨頂の一つでもある「星穹に彷徨う」。
夜空に生まれた流星が、太陽や月、星の神々に出会い、最後には安らぎの大地へと降り立つ――――という物語。酒宴でも何十回と踊ってきた看板演目。伴奏が始まれば身体が勝手に動いてしまうほどの得意演目だ。
この舞台に、もう憂いはない。
すぅっ……と、後ろの二人が構えに入るのが分かる。
サフィは息を整え、右手を差しのべる。
まぶたを閉じ、心の中でランタンを灯す。
(――――――待っててね、少しだけ)
べんッ……! 琵琶の第一弦が鳴った。
それを合図に、サフィのは動き出す。
眼窓がもたらす月明かりの中。
つま先を浮かせ、落ちゆく彗星のように滑りだす――――
(きっと…………きっとまた、会いに行くから…………!)
――――――――はずだった。
サフィの右脚は動いていない。
「…………………………………………?」
戸惑うというより、思考が固まる。
上体の右回転に合わせ、弧を描きながら斜め後方に滑っていくはずの、右のつま先。
それがまだ最初の位置にある。
(…………? ……? …………??)
動かない。動いてくれない。
金縛りの感覚とも違う。疲労、冷え、貧血、どれ一つとして感じない。
ただ「動け」と強く念じる――――と、ようやく右脚が浮いた。
だが、美しい軌道など描かない。ぐりんッ!と股関節から乱暴に振り回し、べたんッ!と床を踏みつける。
客の目には、サフィが無様に仰け反ったように映った。
(………………⁉)(…………サフィ……⁉)
仲間の二名がサフィの異常を察知する。
その一秒前、つま先を浮かす動作が遅かった時点で違和感はあった。直後、舞台では聞くはずのない下品な踏み音が聞こえ、違和感は確信に変わった。
(…………お、落ち着いて……! 次は左手で――――)
床を踏みつけた右足がまた硬直する。バランスを崩し、全身が持っていかれそうになる。ギリギリで耐え、斜め上に向かって左手をのばす。
風切り羽のように五指をなびかせ、肩まで波打たせる「蛇の手」で魅せていく――――
しかし、伸ばした指が曲がらない。
魚の背ビレのごとく硬直し、虚空を刺し貫いている。
(…………………………どうして…………⁉)
やはり痺れも痛みもない。
ついさっきの湯浴みでも、着付けの時も、左手は何の問題もなく動いていた。
なのに、今は違う。
どれだけ念じても、左手は「蛇の手」の動きを忘れたように動かない。
――――――――忘れたように?
首筋に、一粒の汗。
(そん、なわけ…………っ!)
素人である観客ですら、のけぞったまま片腕を伸ばすという不自然な姿に、少なからず違和感を覚えていた。
無理矢理に切り替え、次の小節の動きに移る。
大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。今まで「星穹に彷徨う」の練習なら何百何千と踊ってきた。目をつむっても踊れる。ここから終演まで、頭の中では小指の曲げ方一つまで再現できているのだ。
琵琶の伴奏がいつもより速く、急き立てられるように感じた。
大丈夫、まだ追いつける。
ここからは、両脚を交互に滑らせて三日月を描いていくステップ。ここの連続ターンは踊っていて気持ちよく、調子に乗って何度も何度も練習した。寸分も狂うはずがない。
しかし、それはステップどころか歩行にもならなかった。
片脚を振り子のように回し、そのたびに体幹が大きく傾く。次の一歩を踏むのすら危うい。進行方向も定まらず、定位置で踊っているネフリムに接触しそうになる。
あまりの拙さに、観客が騒めき出す。
辛うじて、右手だけは正しい動きを追っている。指先は翼のように動き、ヴェールを操ることもできる。
しかし右腕以外――――胴体に首、股関節、ひざに足首、そして左腕が踊らない。ひとたび踊ろうとすれば、まるで無理難題を出された幼児のように固まってしまう。
その様を、端的に表すなら。
(身体が…………踊りを忘れてる?)
破裂しそうに脈を打つ心臓。目に映る景色がじわじわと白んでいく。そんなはずない――――と否定しようにも、サフィの両脚は今この時、何百何千と刻んできたリズムを再現できない。
六日間の空白――――は、原因ではない。
流行り病で十日ほど寝込んでも、治ってすぐに舞台に上がり、少しも衰えを感じさせない演舞ができた。
そういう域にサフィはいた。いたはずだった。
千鳥足のように床を踏み、体ごと揺れ、あわや転倒という局面が続く。
そんな醜態を、迎賓広間の片隅から静かに見つめる者がいた。
「まったく、嫌になるわな」
白ひげをたくわえた老賢者は、酒には口をつけずに干しブドウばかりを食んでいた。目頭を押さえ、心底憂鬱そうな顔をして呟く。
「論だ証拠だと言いながら、おかしな勘ばかり冴えおるわ」
(うそ……………うそうそ、なんで、こんなの………っ!)
沼に落ちていく自分を必死に宥める。その間にも醜態に醜態を重ねていき、観客に広がる困惑が苛立ちに変わっていく。
(サフィ…………どうしちゃったの……⁉ サフィ……サフィ……っ!)
見かねたマルシャが、とうとう演舞そっちのけでサフィに駆け寄っていく。
マルシャの目に映った顔は、恥辱と悔しさでグチャグチャに歪んでいた。
「こ…………来ないで、平気だから――――」
よろめきながら、このままではマルシャに衝突する――――と、身体が判断した。
その瞬間。
サフィの両脚は、でたらめな動きをぱたりと止めて回避行動をとる。
マルシャの姿をみとめ、その脚力の限りを尽くし――――――真後ろに跳んだ。
「ちょっ、何して――――」
ネフリムが手を伸ばし、マルシャが駆け寄る。
だがすでに遅い。
跳びのいた方向は舞台の外。大人の肩ほどの高さから空中に飛び出し、およそ一秒、サフィの瞳に景色が焼きついた。
何か叫んでいるマルシャの顔。ネフリムも同じ顔をしてる。
体の下には、床一面に敷かれた客席の絨毯。そこに並んだ大皿と燭台、ガラスの水瓶。
引き延ばされた刹那の中――――――サフィは目を閉じた。
(…………………………シドルク)
直後、けたたましい音が響いた。
陶器とガラスが砕け散り、その音に紛れ、頭骨を打ちつける鈍い音がした。
脳が揺れる感覚と、駆け寄ってくる二人の声をおぼろげに感じ――――――意識は途切れた。
踊りを失った踊り子、サファリケリア=ウル=アシタファ。
彼女の存在が、この砂漠を揺るがす大事変の鍵となる。