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星穹のラクスシャルキ  作者: くるまえび
第1章 巡り合わせ
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星穹に彷徨う

 月夜のとばりが下りた。


 紺碧の空に浮かんだこんてんきゅうの巨影。そびえ立つ下界の月は、美を競うように天空の月と対峙する。

 一幅の絵に収まらない神秘の光景。

 それを拝めるのは、この砂漠のあるじに招かれ、城門を通ることを許された一握りの身分に限られる。


 中央正殿の最上階――――国賓五百人がひしめく迎賓広間は今、まさに熱狂の頂点を迎えていた。

「さあ、ついに始まりますは最終節『魔の連峰(イブリス・ジャバル)』でございます! ああ、喝采かっさいを! あらんかぎりの喝采かっさいを!」


 万雷の歓声を浴びながら――――舞台に立った者の一人は、尋常でない量の汗を流していた。


「ジェッダ……!」

「ジェッダ先輩、流石にもう……っ!」

「………………るせぇ、客が見てんだろが……!」

 引きつる脇腹と右ひざに喝を入れ、踊り子ジェッダは最後の構えをとる。

 ちらりと一瞬、舞台後方のカーテンに目をやった。


 その奥に控えているのは、二名の踊り子――――マルシャとネフリム。

「……………………。」「……………………。」

 もはや言葉は交わされない。マルシャはしきりに指を絡ませ、ネフリムは長い腕を組んでいる。

 二人とも、胸の中では激しい焦燥と闘っていた。「彼女」を信じ抜きたいという意志が、頭をもたげるさいしんを必死に押し殺す。


 ――――――きっと来る。来ないはずない。


 踊るために生まれて、踊るために生きてきた。舞台を降りたそばから次の舞台のことを考えていた。誰よりも一途で、死ぬ時もきっと舞台の上。

 それが二人の知る彼女――――――踊り子サフィだったはずだ。


 そこへ。

 下階へと続くせん階段から、一人の足音が聞こえた。


 聞き慣れた足音が次第に近づき、二人は階段に目を向ける。

 マルシャの大きな眼が、ぱっと開かれた。


「サフィ……っ!」「サフィ……⁉」


「…………ほんっとに、ごめんっ!」


 駆け寄る二人に、サフィは深々と頭を下げた。

 空色に染められたサテンシルクをまとわせ、アイシャドウを塗り、ふわりとした黒髪は綺麗にかしてある。大舞台に相応ふさわしい、非の打ち所のない踊り子の姿だった。


「サフィ……っ! どこ行ってたの? わたし、わたし……っ!」

 留めていた感情が溢れだすマルシャ。幼いながらも踊り子の意地で、化粧を崩すまいと涙をこらえる。

「ごめん、ごめんねマルシャ、心配したよね」

 マルシャの小さな背中を何度も撫でる。しっかりと肩を抱き、もう離れないという意思を示す。

「あら、わたしには無いのかしら?」

 頭上から、もう一人の仲間が恐ろしい顔で睥睨へいげいしていた。

「ネフリム…………心配、した?」

「あんたねぇ、人を何だと思ってんのよ……!」

 そう言うと、すらりと長い腕が伸びて――――サフィとマルシャを抱きしめた。

「…………あとで全部話してもらうわ。覚えときなさい」

 ネフリムの言葉はいつものように厳しい。その肩は小さく震えていた。

 そうだった。強い人でも――――強く見える人でも、心の奥にある弱さまでは見抜けない。ついさっき学んだばかりだ。


 その時、カーテンの向こうで歓声がぜた。


「これにて『七つ海の奇譚(シンディ・バフリ)』、終演にございます! あっぱれ、実にあっぱれでありました、翡翠組エル・ヤシム! ああ皆さま、どうか惜しみない喝采を!」

 熱狂に沸く観客に向かって、翡翠組エル・ヤシムの三名が一礼した。舞台から花道に降りて退場する間、ジェッダは両肩を仲間二人に支えられていた。


 舞台後方のカーテンをくぐり、控えていた瑠璃組エル・ラズリと鉢合わせる。


「………………ジェッダ」

「…………あぁ? ンだよ、来たのかよ」


 全員が沈黙する中、両隊の主役どうしが目を合わせる――――が、いつもの一触即発の空気はない。

「そこのノッポ女がよ…………仕切り役に頼んで、一番手を譲ってくれてよォ。お偉いさんに、たいそう顔が利くようで…………羨ましいぜ」

 悪態をつきながら、ネフリムの方をちらりと見た。

「おかげで目立ちに目立ったわ…………今年の一番は決まったな、ありがとよ」

 ふてぶてしく皮肉を言うジェッダだが、今にも倒れそうなほど精根は尽きている。

 いくら序列を決める大舞台とはいえ、踊りの完成度にこだわる彼女が、ぶっ通しの連続演舞なんて好き好んで挑むはずはない。サフィには、それが分かっていた。

「ごめんね、ジェッダ。…………ありがと」

「あああッ⁉ 何言……っ! キモチ……わり…………!」

 息も絶え絶えに、ジェッダは仲間と共に階段を降りていった。




「さあ、続きましては皆様お待ちかね!」


 額の汗をぬぐい、司会役が叫んだ。五百人の観客の目が、今ふたたび中央の大舞台に注がれる。スープの匙ひとつ鳴らない静寂。盛大な宴にそぐわない空気が、一瞬だけ迎賓広間を満たした。


「ここまで栄冠に輝くこと三度! 『瑠璃組エル・ラズリ』の登場です!」


 舞台奥のカーテンが開かれ――――サフィを先頭に、三人が花道に現れる。


「おおおおおおおッ! 出たぞ、あの三人だ!」

「ああ、昼も夜も待ちわびた! せてくれ、もう一度魅せてくれ!」

 耳をつんざく拍手喝采。歓声の嵐が大ドームを震わせる。翡翠組エル・ヤシムたかぶらせた熱気が、瑠璃組エル・ラズリの期待感を否応なく高めていた。


 舞台までの花道を歩きながら、サフィは一度だけ目を閉じた。 


 最後に舞台に立った宴は、たったの六日前。

 あの夜、あの城壁から落ちてなければ――――きっと何も知らないまま、同じ花道を歩いていた。あの苦労の日々も、残酷で哀しい世界も知らないままで。

 二日前の夜、一度だけ、踊り子でいることを諦めた。

 もう帰れない舞台を目に浮かべて、震えが止まらなくて、足元から世界が崩れていく感覚があった。


 それでも今、ここにいる。

 

 舞台へと続く花道は一段高く、すぐ近くまで客の絨毯席が寄せられている。こちらを見上げるのは傷一つない貴人の顔。大臣に上級官、将軍、大商人に氏族当主、遠い異邦から招かれた王侯貴族。

 

 はるか向こう、迎賓広間の奥にも、舞台を見守っている人がいる。


 ドゥラーン国王陛下に、次期国王のジャムゥル皇子。

 そして――――――ルベリエラ王妃もまた、あの日と同じ瑠璃色の瞳を向けている。


 でも、ここにはいない。

 誰よりも見て欲しい人が、この場所にはいない。


「ねえ、ネフリム」

 右後ろを歩いている彼女に、サフィはこっそりと呟いた。

「あとでさ、お金の集め方、教えてくれる?」

「………………ほんと、何があったのよ、あんた」

 ネフリムは肩をすくめながら、知らぬ間に大きくなった妹分の背中を見ていた。


 そして、三人は舞台へと上がる。

 拍手の嵐に襲われ、歓声のばくに身をうたれる。



「御覧に入れますは、演目『星穹に彷徨う(ストラ・セルタ)』でございます!」



 誰もが足をすくませる大舞台。しかし、サフィの顔に気負いはない。マルシャもネフリムも、今この瞬間を待っていたとばかりに気力がみなぎっている。

 サフィは、ぐっと右手を握った。

 疲労は吹き飛び、熱い血液が巡っている。コンディションに不足なし。心残りがあるとしたら「合わせ」をする暇が無かったことだが、幸いにも今から披露するのは、サフィの真骨頂の一つでもある「星穹に彷徨う(ストラ・セルタ)」。


 夜空に生まれた流星が、太陽や月、星の神々に出会い、最後には安らぎの大地へと降り立つ――――という物語。酒宴でも何十回と踊ってきた看板演目。伴奏が始まれば身体が勝手に動いてしまうほどの得意演目だ。


 この舞台に、もううれいはない。

 

 すぅっ……と、後ろの二人が構えに入るのが分かる。

 サフィは息を整え、右手を差しのべる。

 まぶたを閉じ、心の中でランタンを灯す。



(――――――待っててね、少しだけ)



 べんッ……! 琵琶ウードの第一弦が鳴った。


 それを合図に、サフィのは動き出す。

 眼窓オクルスがもたらす月明かりの中。

 つま先を浮かせ、落ちゆく彗星のように滑りだす――――



(きっと…………きっとまた、会いに行くから…………!)









 ――――――――はずだった。


 サフィの右脚は動いていない。

「…………………………………………?」

 戸惑うというより、思考が固まる。

 上体の右回転に合わせ、弧を描きながら斜め後方に滑っていくはずの、右のつま先。

 それがまだ最初の位置にある。


(…………? ……? …………??)


 動かない。動いてくれない。

 金縛りの感覚とも違う。疲労、冷え、貧血、どれ一つとして感じない。

 

 ただ「動け」と強く念じる――――と、ようやく右脚が浮いた。


 だが、美しい軌道など描かない。ぐりんッ!と股関節から乱暴に振り回し、べたんッ!と床を踏みつける。

 客の目には、サフィが無様に仰け反ったように映った。

(………………⁉)(…………サフィ……⁉)

 仲間の二名がサフィの異常を察知する。

 その一秒前、つま先を浮かす動作が遅かった時点で違和感はあった。直後、舞台では聞くはずのない下品な踏み音が聞こえ、違和感は確信に変わった。


(…………お、落ち着いて……! 次は左手で――――)


 床を踏みつけた右足がまた硬直する。バランスを崩し、全身が持っていかれそうになる。ギリギリで耐え、斜め上に向かって左手をのばす。

 風切り羽のように五指をなびかせ、肩まで波打たせる「蛇の手」で魅せていく――――


 しかし、伸ばした指が曲がらない。

 魚の背ビレのごとく硬直し、虚空を刺し貫いている。

(…………………………どうして…………⁉)

 やはり痺れも痛みもない。

 ついさっきの湯浴みでも、着付けの時も、左手は何の問題もなく動いていた。

 なのに、今は違う。

 どれだけ念じても、左手は「蛇の手」の動きを忘れたように動かない。


 ――――――――忘れたように?


 首筋に、一粒の汗。

(そん、なわけ…………っ!)

 素人である観客ですら、のけぞったまま片腕を伸ばすという不自然な姿に、少なからず違和感を覚えていた。


 無理矢理に切り替え、次の小節の動きに移る。

 大丈夫、大丈夫と言い聞かせる。今まで「星穹に彷徨う(ストラ・セルタ)」の練習なら何百何千とってきた。目をつむっても踊れる。ここから終演まで、頭の中では小指の曲げ方一つまで再現できているのだ。


 琵琶ウードの伴奏がいつもより速く、き立てられるように感じた。

 大丈夫、まだ追いつける。

 ここからは、両脚を交互に滑らせて三日月を描いていくステップ。ここの連続ターンは踊っていて気持ちよく、調子に乗って何度も何度も練習した。寸分も狂うはずがない。


 しかし、それはステップどころか歩行にもならなかった。

 片脚を振り子のように回し、そのたびに体幹が大きく傾く。次の一歩を踏むのすら危うい。進行方向も定まらず、定位置で踊っているネフリムに接触しそうになる。

 あまりのつたなさに、観客が騒めき出す。

 

 辛うじて、右手だけは正しい動きを追っている。指先は翼のように動き、ヴェールを操ることもできる。

 しかし右腕以外――――胴体に首、股関節、ひざに足首、そして左腕が踊らない。ひとたび踊ろうとすれば、まるで無理難題を出された幼児のように固まってしまう。

 その様を、端的に表すなら。



身体が(・・・)…………踊りを(・・・)忘れてる(・・・・)?)



 破裂しそうに脈を打つ心臓。目に映る景色がじわじわとしらんでいく。そんなはずない――――と否定しようにも、サフィの両脚は今この時、何百何千と刻んできたリズムを再現できない。


 六日間の空白(ブランク)――――は、原因ではない。


 流行り病で十日ほど寝込んでも、治ってすぐに舞台に上がり、少しもおとろえを感じさせない演舞ができた。

 そういう域にサフィはいた。いたはずだった。


 鳥足どりあしのように床を踏み、体ごと揺れ、あわや転倒という局面が続く。

 そんなしゅうたいを、迎賓広間の片隅から静かに見つめる者がいた。

「まったく、嫌になるわな」

 白ひげをたくわえた老賢者は、酒には口をつけずに干しブドウばかりを()んでいた。目頭を押さえ、心底憂鬱そうな顔をして呟く。

「論だ証拠だと言いながら、おかしな勘ばかり冴えおるわ」


(うそ……………うそうそ、なんで、こんなの………っ!)


 沼に落ちていく自分を必死になだめる。その間にも醜態に醜態を重ねていき、観客に広がる困惑が苛立ちに変わっていく。

(サフィ…………どうしちゃったの……⁉ サフィ……サフィ……っ!)

 見かねたマルシャが、とうとう演舞そっちのけでサフィに駆け寄っていく。

 マルシャの目に映った顔は、恥辱と悔しさでグチャグチャに歪んでいた。


「こ…………来ないで、平気だから――――」


 よろめきながら、このままではマルシャに衝突する――――と、()()()判断した。

 

 その瞬間。

 サフィの両脚は、でたらめな動きをぱたりと止めて回避行動をとる。

 マルシャの姿をみとめ、その脚力の限りを尽くし――――――真後ろに跳んだ。


「ちょっ、何して――――」

 ネフリムが手を伸ばし、マルシャが駆け寄る。

 だがすでに遅い。

 跳びのいた方向は舞台の外。大人の肩ほどの高さから空中に飛び出し、およそ一秒、サフィの瞳に景色が焼きついた。


 何か叫んでいるマルシャの顔。ネフリムも同じ顔をしてる。

 体の下には、床一面に敷かれた客席の絨毯。そこに並んだ大皿と燭台、ガラスの水瓶みずさし

 引き延ばされた刹那の中――――――サフィは目を閉じた。



 (…………………………シドルク)



 直後、けたたましい音が響いた。

 陶器とガラスが砕け散り、その音にまぎれ、頭骨を打ちつける鈍い音がした。

 脳が揺れる感覚と、駆け寄ってくる二人の声をおぼろげに感じ――――――意識は途切れた。




 踊りを失った踊り子、サファリケリア=ウル=アシタファ。

 

 彼女の存在が、この砂漠を揺るがす大事変の鍵となる。

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