願わくば、叶わずとも ③
「翡翠組が、ですか……⁉」
サフィは戸惑った。
あの翡翠組が――――ジェッダが、何の為にそんなことを。
「うむ、だから少しばかり時がある。しかと身を整えるがよいぞ」
パイラ皇女は胸を張って、安心せよとばかりに腰に手をやった。
その時、御付きのムッタが遠くの曲がり角からサフィを手招きした。早くも蒸し風呂の準備ができたらしい。
パイラ皇女の真意はともかく、今は厚意に甘えるしかなかった。
「皇女殿下…………その、ありがとうございますっ!」
小さな恩人に謝意を述べて、サフィはムッタが呼ぶ方へと駆け出した。
「あ、あっ…………そなたよ」
皇女は小さな手をかざし、サフィを呼び止めた。
サフィが振り向くと、皇女からは今までの尊大な雰囲気を感じなかった。どこか落ち着かない様子で、両手の指をもじもじと絡ませている。
「こ、これは臣下への恩寵だからの。気兼ねは要らぬ。ただな…………その…………代わりにではないのだが」
言い淀んでいた皇女だが、踏ん切りをつけたようにサフィに駆け寄ると、そっと耳元で囁いた。
「――――――今度、踊りを教えてくれんかの?」
「……………へ?」
皇女の頬は、わずかに赤かった。
「その、母上がな…………優しい御人なのだが、踊りに関しては観るのも許してくれぬのだ……。今日の大饗宴とて、舞台が始まる前に帰されてしもうてな」
可愛らしい皇女の顔が、夜中の向日葵みたいに萎んでいた。
サフィは思い出した。
この小さな姫君が、ときどき稽古場に忍びこんでは、踊り子たちの練習を覗いていたのを。とりわけ、サフィが踊るのを見つめ、母譲りの蒼い瞳をきらきら輝かせていたことを。
「パイラもな、一度でよい………そなたのように踊ってみたいのだ。…………駄目、かの?」
皇女は、いつの間にか床のカーペットを見つめてしまっていた。
サフィは跪くと、皇女の目線を掬い上げるように見つめ、小さな手を握った。
「――――――必ずや!」
マーハ郊外、とある赤土の荒地。
「ジュニ坊よぉ! まだ上がんねえのかぁ⁉」
荒野にぽっかりと空いた竪穴。その近くでは、数人の男奴隷が一本の縄を握りしめ、穴の奥から何かを引き揚げようとしていた。
「うるさいっす! 黙って引けないんすか⁉」
「いっ…………⁉」
先頭で縄を引いているジュニが一喝し、ずっと大柄な中年奴隷を黙らせる。
ジュニは、兄貴分と交わした約束を遂行していた。
夕刻の鐘が鳴ってから数十分待ち、それでも帰る気配がなければ――――――万が一の場合を考え、この命綱を引き揚げるという約束。
じっとりかいた手汗が縄を滑らせる。ジュニは胸騒ぎを必死に堪えていた。
「しかしよぉ、あの牛野郎、こんな暗ぇ穴に一人で降りるたぁな」
「孫娘ちゃんが大事なもんを落としたってんだろ? あの子に頼まれたらよ、そりゃ俺だって地獄の底でも行っちまうぜ」
「がはははは、その孫娘ちゃんは帰っちまったみてえだぜ? 良いように使われてんだよ、あいつも俺たちも」
奴隷たちが軽口を叩きながら、節くれ立った手で麻縄を引き寄せる。彼らはジュニの方便を信じ、わざわざ奴隷小屋から駆けつけていた。
その時、いきなり縄が竪穴へと引きこまれた。全員が前につんのめり、ジュニの片足が落ちそうになる。
どうやら、穴の底にいる誰かが縄を頼りに這い登っているようだ。
「………………!」
曇っていたジュニの表情が晴れる。一分もせずにランタンの灯が見えて、人影が上がってきた。
穴から這い出て、シドルクが地面にへたりこむ。
ずぶ濡れで全身が冷えているが、無事には違いなかった。
「遅かったっすね、兄貴」
寒いわけでもなく鼻をすすり、ジュニは声をかけた。
「ああ…………ジュニ、心配かけたか」
「……⁉ い、いや、別にぃ……?」
ジュニを襲ったのは強い違和感。無理もない。穴に潜っていく以前とは、明らかに何かが違っている。かつてのシドルクなら「他人が自分を心配する」いう発想が湧かなかったはずだ。
「シドルク! 孫娘ちゃんの落とし物ってのは見つかったのか⁉」
奴隷の一人が尋ねた。ジュニは彼らの死角で、こっそりとシドルクの右手に何かを握らせる。
穴に降りる前に預けられた、ラピスラズリの首飾りだ。
ジュニに目くばせされて状況を察すると、シドルクは目の前にそれをかざす。その神秘的な蒼さに、奴隷の面々はどよめいた。
「な、なんだそりゃあ……? それ、孫娘ちゃんに返すんか……?」
「バカ、そりゃそうだろ! こんなもんネコババしてみろ、手足どころか首までサヨナラだぜ⁉」
口々に奴隷が言い立てる中、事情を知る二人だけが無言だった。
やがて、奴隷がぞろぞろと帰路を歩いていく。その列の最後尾に、シドルクとジュニの姿があった。
夕刻前に仕事を抜け出してきたので、明日には二人そろってヒマールの鞭が待っている。それでも、二人の顔色に曇りはなかった。
「…………姉さんは、帰ったんすね」
「ああ」
前を歩く奴隷たちに聞こえないよう、二人は声を落とした。
「何かあったんすか、兄貴」
人の顔色に敏感なジュニは、シドルクの変わりようが気になった。それは好ましい変化ではあったのだが、今までの無骨で無頓着という印象が強いせいで、どうにも違和感から抜け出せない。
「なあ、ジュニ、教えてくれるか」
「はい?」
シドルクは遠くの空を眺める。
真夜中をくり抜いたような昏い瞳に、おぼろな月が映っていた。
「王宮に入るには、どうしたらいい?」